大判例

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宮崎地方裁判所延岡支部 昭和60年(ワ)53号 判決

主文

一  被告は、別表「認容金額一覧表(一)」及び同「認容金額一覧表(三)」掲記の各原告並びに同「請求金額一覧表(二)」掲記の各訴訟承継人原告に対し、それぞれ各表の「認容金額」欄掲記の各金員及びその各内金である同表の「慰謝料」欄掲記の各金員に対する、平成元年一二月一三日から各支払済みまで、年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は、第一項記載の認容金額につき、各二分の一の限度において、仮に執行することができる。

事実

(当事者の求めた裁判)

第一節  請求の趣旨

一  被告は、別表「請求金額一覧表(一)」及び同「請求金額一覧表(三)」掲記の各原告並びに同「請求金額一覧表(二)」掲記の各訴訟承継人原告に対し、それぞれ各表の「請求金額」欄掲記の各金員及びその各内金である同表の「弁護士費用以外部分」欄掲記の各金員に対する、原告富高由子、同寺田ユキノ、同工藤八千枝に対しては昭和六〇年三月一五日から、その余の原告らに対しては昭和五九年一一月一八日から各支払済みまで、年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行宣言。

第二節  請求の趣旨に対する答弁

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

(当事者の主張)

第一編 請求の原因

第一章  加害行為

第一節  土呂久鉱山の概要及び本件当事者

第一 土呂久鉱山

一 旧土呂久鉱山(宮崎県採掘権登録第六五号、同第八〇号)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸に所在し、同鉱山においては大正九年ころから砒鉱の採掘、亜砒酸の製造が本格的に行われるようになった。右営業は、一時中断があったものの、戦後も昭和三〇年に再開され、昭和三七年同鉱山が閉山されるまで続けられた。(以下「本件鉱山」ともいう。)

二 本件鉱山の坑口、坑道、焙焼炉、捨石及び鉱滓捨場を初めとする諸施設は、時代により変遷はあったが、土呂久川がコの字形に湾曲する位置にある、字名を樋之口、吹谷と呼ばれる地域に、土呂久川を間に挟んでその両岸一帯に存在し、社宅も同所にあった。坑口は、土呂久川東岸から山の斜面にかけて一番坑、二番坑、三番坑、四番坑と続き、やや下手に大切坑があった。戦前は、一番坑付近の土呂久川沿いの平地に砒鉱の選鉱や砕石、団鉱作り及び砒鉱の焙焼を行う作業場が設けられていた。戦後は昭和三〇年三番坑の上方、土呂久川の川べりからの高さ約一〇〇メートルの、山の斜面を切り開いた地点に新式の焙焼炉が一基建設され、従来のものに変わって稼働し、亜砒酸の精錬が行われた。

第二 鉱業権者の推移

本件鉱山の鉱業権者の推移は次のとおりである。

一 採登第六五号鉱区

大正三年七月二八日 山田英教

大正六年七月二五日 大谷治忠

大正一四年三月二日 渡部録太郎

昭和六年四月一六日 中島門吉

昭和七年四月四日 関口曉三郎 中島門吉

昭和九年三月一九日 中島門吉

昭和一一年九月一四日 中島門吉 中島和久平

昭和一二年一月二八日 岩戸鉱山株式会社

二 採登第八〇号鉱区

大正八年 竹内令サク

昭和八年 (右同) 竹内勲

昭和九年 (右同) 中島門吉

昭和一二年一月二八日 岩戸鉱山株式会社

三 採登第六五号鉱区、同第八〇号鉱区

昭和一八年四月一日 中島鉱山株式会社 (岩戸鉱山株式会社が社名変更)

昭和一九年四月二〇日 帝国鉱業開発株式会社

昭和二五年六月三〇日 中島産業株式会社

昭和二六年八月二九日 中島鉱山株式会社

昭和四二年四月一九日 被告

第三 本件当事者

一 原告らは、いずれも、本件鉱山の操業当時、鉱山の所在地である高千穂町大字岩戸のいわゆる土呂久地区(惣見、畑中、南の三集落を中心とする、土呂久川渓谷沿いの地域)に家族とともに居住し、又は本件鉱山に毎日通勤し、本件鉱山による環境汚染に起因して健康障害その他の被害を受けた者若しくはその相続人である。

二 被告は、東京都港区新橋五丁目一一番三号に本店をおき、鉱業、採石、金属加工等を業とする株式会社であるが、前記のとおり昭和四二年四月一九日訴外中島鉱山株式会社から本件鉱山の各鉱業権を取得し、昭和四八年六月二二日これを放棄し、同月三〇日鉱業権消滅の登録をした。

第二節  汚染源

土呂久地区の環境を汚染した物質は、砒素及び副次的に亜硫酸ガスであり、その汚染源は、以下に述べるとおり、〈1〉大正九年ころから昭和一七年ころまで及び昭和三〇年ころから昭和三七年ころまでの亜砒酸製造期間中に排出された鉱煙、〈2〉大正九年ころの亜砒酸製造の本格化以来今日まで連続して土呂久に堆積され続けてきた捨石及び鉱滓、〈3〉同様継続して放流され続けてきた坑水、の三つである。

第一 鉱煙の排出

一 戦前における亜砒酸の製造

1 戦前土呂久鉱山に設置されていた亜砒焼き窯には、後記反射炉を別にして、粗製窯と精製窯の二種類(以下「旧亜砒焼き窯」という。)があった。

旧亜砒焼き窯は、大正九年以降順次その数を増やして行き、粗製窯は、一番坑の手前に約七基、三番坑の坑口付近に二基、四番坑の坑口付近に二基、後記反射炉の横に一基設置され、精製窯は、一番坑の手前に一基設置された。

2 粗製窯は、高さ約三メートル、幅約四メートル、奥行約一〇ないし一一メートル程度の大きさで、内部には炉と三室程度の集砒室があり、それら全体が石を積み上げ、粘土で固めて作られた極めて原始的な構造のものであった。

坑内より採掘された砒鉱(塊鉱)は、選鉱された後砕石され、その際生じる砒鉱の粉末(粉鉱)は練って団子状に丸められた(団鉱)。粗製窯による焙焼は、この塊鉱と団鉱を炉に薪と共に挿入したうえ点火し、点火後は鉱石や薪を追加することなく空気の調節をするのみで継続して、約五日ないし一週間で終了した。焙焼終了後は、集砒室から亜砒酸を取り出したが、一号室には純度のよい精砒が沈降し、二号室と三号室には純度の落ちる粗砒が沈降した。

3 精製窯も、粗製窯とほぼ同様の大きさであり、同じく内部に炉と集砒室があり、その構造も粗製窯と同じ石積みの原始的なものであった。

粗製窯から取り出された純度の落ちる粗砒は、精製窯で精製された。炉には粗砒と木炭が一定時間毎に交互に投入され、いわば連続的に精製が続けられ、精製窯はほとんど一年中稼働している状況であった。

4 昭和一〇年ころ、大切坑の手前の土呂久川東側川べりのズリの横に反射炉と呼ばれた炉が設置された。この炉は、コンクリート造りで、高さ約二メートル五〇、幅約四メートル、奥行約一五ないし二〇メートルの大きさで、炉とそれに続く三室の集砒室が設けられていた。

錫の鉱石と共に採掘された砒鉱は、一旦東岸寺の選鉱場に送られ、そこで錫鉱と分けられて粉鉱として返送され、この反射炉で焙焼された。反射炉では、旧亜砒焼き窯のような燃料の上に直ちに鉱石を投入するという方式ではなく、炉で燃焼させる燃料の反射熱によって鉱石を焙焼するという方式がとられた。燃料としては木炭とコークスが使用され、二時間おきに炉の鉱石投入口を開けて粉鉱を投入し、中の粉鉱を鉄の棒でまぜ返しながら、昼夜三交替毎日連続して焙焼を継続した。反射炉による焙焼は、旧亜砒焼き窯と比較して格段に煙の排出量が多かったので、住民からの反対の声も特に強く、そのため、鉱山は昼間は出来るだけ煙を出さないようにし、夜間に操業を強化するようなことをした。

反射炉で生産された亜砒酸は、すべて純度が低くそのままでは製品とならないため、これを精製窯まで運んで、前記3と同様の方法で精製した。

5 以上のようにして、戦前は、大正九年ころから昭和一七年ころまでの間、土呂久鉱山において亜砒酸の製造が行われた。土呂久鉱山における亜砒酸の生産量は、大正一四年から昭和一七年までの間では、合計二三五四トン(年平均約一三〇トン)に及んでいる。そして、この亜砒酸製造に伴い排出された亜硫酸ガスの量は、一時間平均一七・五二N立方メートル、多いときで一時間二五N立方メートルに及んだと推計される。

二 戦後における亜砒酸の製造

1 戦後に土呂久鉱山で亜砒酸を製造するために使用された焙焼炉(以下「新亜砒焼き窯」という。)は、昭和三〇年三月、旧四番坑手前の山の斜面を切り開いた地点に完成した。

新亜砒焼き窯は、直径一・五メートル、高さ三メートルの鉄製の円筒形堅型炉一基と、約三メートル四方の集砒室四室からなり、集砒室は石積みとなっており、窯全体が木造板葺の平屋建家屋根様のもので覆われていた。

2 新亜砒焼き窯においても、塊鉱と団鉱を焙焼して集砒室で亜砒酸を回収するという点では、旧亜砒焼き窯における製造方法と原理的には異なるところがなかったが、より生産の効率を図るため連続式の操業方法をとったところに特徴があった。

すなわち、炉に鉱石と燃料のコークスとを投入し、下方から点火した後も、一〇分ないし一五分おきに焙焼の終わった鉱石を下方から取り出しつつ、同時に一時間に二、三回ずつ上方から鉱石と燃料を投入し続け、焙焼作業を途切れることなく継続していく方法がとられたのであった。したがって、炉の火は一年中消えることなく、正月も休日もまた昼夜を問わず焙焼が続けられ、従業員は一日三交代で作業に当たった。

なお、集砒室に沈降した亜砒酸のうち、三号室及び四号室に沈降した分は純度が落ちたため、再度精製されたが、この精製も同じ新亜砒焼き窯で行われ、その場合には、頃合を見て鉱石の焙焼を一旦中断して行われた。

3 戦後の土呂久鉱山における亜砒酸の生産量は、年平均七六・七トンであり、多い年は一一〇トンを超えた。そして、この亜砒酸製造に伴い排出された亜硫酸ガスの量は、一時間平均七・二二N立方メートル、多いときで一時間一〇・五〇N立方メートルに及んだと推計される。

三 亜砒焼き窯からの亜砒酸の排出

戦前の旧亜砒焼き窯及び反射炉並びに戦後の新亜砒焼き窯のいずれからも、鉱石の焙焼に伴い多量の亜砒酸が排出され大気を汚染した。すなわち、亜砒酸の粒子には、炉の中で挿入物が高温により一旦揮発した後壁と接触して再び固定形に変わったいわゆるフュームと呼ばれるものが存し、フュームは、時間の経過に伴い次第に凝集して集砒室内に沈降し回収されるものもあったが、集砒室による回収には限界があって、沈降せずに飛散して窯から排出されるものもあった。亜砒酸の製造に当たっては、通常二八ないし四四パーセントのロス(鉱石中の有用分のうち、鉱石中に残存したり、回収過程で飛散したりしたため、回収されなかったもの)が生じるといわれており、このことからも、昇華した亜砒酸が回収しきれずに一部飛散してしまうものであることは、明らかである。また、岡山大学公衆衛生学教室による杉の年輪中の砒素量の分析結果や、岩戸小学校斉藤正健教諭及び宮崎県による杉の年輪幅の各調査結果は、いずれも、亜砒酸が焙焼炉から排出され大気を汚染したことを裏付けるものであり、さらに、宮崎県による土呂久地区の家屋塵埃中の砒素量の調査結果も同様である。

四 亜硫酸ガスの排出

亜砒酸の焙焼は、硫黄を含んだ鉱石を自燃させて行うものであるから、それに伴い必然的に亜硫酸ガスが発生し、そのすべてが、窯から排出されて、土呂久地区を汚染した。

第二 捨石及び鉱滓の堆積

一 堆積場所及び堆積方法

1 鉱山の操業に伴って生じた多量の捨石(ズリ)及び鉱滓(カラミ)は、鉱山作業所の周辺、具体的には、一番坑手前の川べり、大切坑付近の川べり、佐藤操方の横、各坑口付近、新亜砒焼き窯手前の谷間等に堆積された。

2 捨石や鉱滓は、右各場所に単にそのまま積み重ねられ、あるいは、ころがされていたのみで、堆積物の崩壊・流出、雨水の浸入・浸出又は粉塵の発生等を防止するための何らの措置も講じられていなかった。特に戦前においては、砒鉱の焼きがらは昭和一一年ころまではそのまま川に投げ捨てられていたのであり、また、戦前戦後を通じて、川べりの捨石は大雨等の場合にそのまま土呂久川に流れ込むような状況であった。

二 捨石及び鉱滓による汚染

土呂久鉱山の捨石及び鉱滓には、極めて高濃度の多量の砒素分が含まれていた。捨石及び鉱滓中の砒素は、地下水や降雨水等により溶出し、周囲の水質や土壌を汚染した。また、捨石及び鉱滓は、それ自体風に吹かれて粉塵となり、環境汚染の源ともなった。そして、昭和一七年ころの休山から昭和二二年ころの再開までの間及び昭和三七年の閉山後も、捨石及び鉱滓は、汚染源として、存在し続けた。

三 亜砒焼き窯の放置

昭和一七年ころまで使用された旧亜砒焼き窯は、その後も撤去されず、内部に多量の亜砒酸が付着したまま、何らの措置を講ぜられることなく放置され、昭和四〇年代に至るまで崩壊するままに雨水にさらされ続けた。また、新亜砒焼き窯も、昭和三七年の操業中止後、内部に多量の亜砒酸が付着したまま放置され、昭和四六年末に取り毀されて覆土された。

これら亜砒焼き窯の放置は、捨石や鉱滓の堆積と同様に土呂久の土壌、水質を汚染してきたことは明らかであり、鉱業法上の損害賠償の責任原因事実のひとつである、「捨石若しくは鉱滓の堆積」に準ずるものとして、それに含めて解釈すべきである。

第三 坑内水の放流

一 大量の坑内水の流出

土呂久鉱山では、戦前から坑内水の坑道からの排出が多く、これは戦後も続き、坑内水の流出のため坑道が水没したこともあり、昭和三七年の閉山もこの水没事故が契機となっている。

二 坑内水の土呂久川への放流

右の多量の坑内水は、相当量の砒素分、その他の有害物質を含んでいたが、それらを除去するための措置は何ら講ぜられないまま、土呂久川に放流され続け、環境汚染の源となった。そして、それらが下流の東岸寺用水にとり入れられ、田畑の灌漑用水、飲料水、生活用水等として使用された。坑内水は、昭和一七年ころの休山から昭和二二年ころの再開までの間及び昭和三七年の閉山後も、放流され続け、それによる汚染は継続した。

第三節  環境破壊-鉱毒被害-

第一 大気汚染

一 土呂久の地形の特徴

土呂久地域は、祖母山、障子岳、古祖母など標高一六〇〇メートルから一七〇〇メートルの山なみに囲まれた谷間の山村である。中央の谷底を流れる土呂久川は、その源を古祖母に発し、惣見地区を通って支流小又川を合し、山なみにぶつかって鋭く屈曲し、畑中地区を下って支流畑中川と合し、やや平坦な南地区を南下して立宿・東岸寺を経て岩戸川本流に合流する。

新亜砒焼き窯付近で見ると、山頂までの比高三〇〇メートル、斜面上部の谷幅約一五〇〇メートル、谷壁を形作る山の斜面は急峻で土呂久川の屈曲に合わせて複雑に凹凸する。土呂久は、周囲を山に囲まれた閉鎖的な地形である。

二 土呂久の大気汚染の気象的メカニズム

1 土呂久のような渓谷・谷間においては、山の斜面が太陽熱で熱せられる結果、日中は谷の上部や斜面の上方部へ向かって谷風が吹くが、夜間には山腹の放熱冷却のため空気の密度が大きくなって、日中とは逆に斜面に沿って下方へ吹き降りる山風が吹く。さらに、日の出ころから夜の始まりにかけて、谷の内部を循環する風が存在する。

そのため、日中は循環風により汚染物が谷の内部を循環し、夜間は山風が谷間の内部に散在している汚染物質を長い間狭い区域に閉じ込めることとなる。

2 さらに、土呂久地区の大気は安定しているため、それが汚染の濃度をより一層高める原因となっている。特に、土呂久地区においては、逆転層が形成されることが観測・実験により確認されている。すなわち、土呂久の谷の東西の山頂の高さは八五〇ないし八七〇メートルであるが、これより低い六四〇メートル前後から七六〇メートルまでのところに、大気の逆転層が形成されることが多く、その場合地表面に発生した汚染物質はその逆転層の下に閉じ込められることとなるのである。

三 土呂久の大気汚染現象

1 鉱石の焙焼により生成する亜砒酸粒子は、一ミクロンといわれるが、これが亜砒焼き窯の煙突から排出されて土呂久の谷の中を覆い、土呂久地区全域の大気を汚染した。

2 鉱石の焙焼により大量に発生した亜硫酸ガスも、土呂久の谷間の大気を汚染した。特に、戦前の旧亜砒焼き窯は、新亜砒焼き窯に比べてより原始的な構造で、谷底である川べりに存在したから、亜硫酸ガスは谷底に広く滞留したであろうことが容易に想像できる。

第二 土壌汚染

一 亜砒酸粉塵の降下

大気中の亜砒酸粉塵は、地表に降下して、水田や畑等の農用地・牧草地を汚染した。また、土呂久川やこれから導入する東岸寺用水などの生活用水にも降下して、水を汚濁した。地表に降下した亜砒酸粉塵は、土中に浸透し、あるいは、表流水・地下水に溶け込んで、土壌を間断なく汚染したのである。

二 捨石及び鉱滓中の砒素による汚染

土呂久川沿い等に堆積した捨石及び鉱滓に含まれる砒素は、捨石及び鉱滓の上に降下した亜砒酸粉塵とともに、雨の日には浸出水の中に溶け込んで土呂久川に流れ、土壌汚染の原因となった。

三 亜硫酸ガスによる汚染

亜硫酸ガスは、空気中の水分と結びつきあるいは酸化されて、地表を汚染した。

四 操業中止・閉山後の汚染

鉱山は、昭和一六年に一旦操業を中止し、昭和三〇年の操業再開の後昭和三七年に閉山となったが、操業の中止・閉山後にも砒素・銅・鉛・カドミウム等の有害重金属を含んだズリ山はそのまま放置され、亜砒酸を大量に付着したままの新亜砒焼き窯も取り壊されることなく放置された。そのため、操業がなくなった後も、雨水はこれらの有害物質を溶け込ませて土壌汚染を継続させた。

第三 川水・生活用水の汚濁

亜砒酸粉塵は、大気中から直接土呂久川、東岸寺用水に降下してこれらを汚濁し、また、放流される坑内水及び放置されたズリ堆積場から流れる水は、その汚濁の程度を増した。水質汚濁は閉山後もなお続いている。

第四節  環境破壊がもたらした生活破壊

第一 大正年間の環境破壊と生活破壊

一 農業、養蜂等の被害

大正九年ころから本格化した土呂久鉱山の操業により、山の杉・竹林・雑木は成長が止まりあるいは枯れ、山の斜面は火事の焼け跡のような悲惨な状況になった。耕地も荒れ果てて、作付けも出来ないような状態であり、土呂久川の石は赤変し、魚は死滅した。土呂久の主要な農産物は椎茸であったが、椎茸の原木には茸が生えなくなり、また、養蜂も盛んであったが、その蜜蜂も死滅した。

二 畜産の崩壊

土呂久地区は、鉱山の操業が始まる前は、牛馬の品質の良さで評判であった。鉱山の操業開始後は、牛馬が餌を食べなくなり、栄養不良で育たず、斃死が相次ぎ、出産状況も極めて悪くなって、土呂久の重要な産業であった畜産業は、壊滅的な打撃を被った。

第二 昭和における環境破壊と生活破壊

一 戦前

鉱煙の影響で、大豆や小豆の実がならず、柿・梅も結実しなくなった。椎茸は生育せず、牛馬は流産・生育不良・斃死が続いた。

二 戦後

昭和一六年の操業休止から昭和三〇年の操業再開までの間、土呂久の地場産業は一時的に活気を取り戻したが、右操業再開後は、植林・牧草の成育不良、椎茸の不作、蜜蜂の死滅等の被害が起こり、再び畜産・農作物共に壊滅的打撃を受けた。

第二章  因果関係

*(因果関係検討の前提)

本件で問題とする土呂久鉱山から排出された鉱毒は、砒素に限らず亜硫酸ガス等も含むが、因果関係を検討するうえで、砒素が健康被害に与えた影響を問題とすればそれで十分であるので、以下では、専ら砒素と個別被害者との因果関係についての検討を進めることにする。

第一節  因果関係(総論)

第一 砒素中毒に関する基礎的知見

一 砒素の化学的性質

1 砒素は原子番号三三の元素で、安定した砒素化合物である砒素の酸化数は、-3・-1・+1・+5であり、そのうち五価と三価の化合物がよく知られている。いわゆる亜砒素は、三価の砒素化合物であり、五酸化二砒素は、五価の砒素化合物である。

2 砒素及びその化合物は、紀元前からよく知られた毒物で、毒薬・医療品・殺鼠剤・農薬等として利用されてきたが、その中で最も毒性の強いものは三価の無機砒素化合物であり、その代表的なものである亜砒酸の人間における半数致死量(経口投与を受けた者の半数が死亡する量)は、体重一キログラム当たり一・四三ミリグラムとされている。

二 吸収・体内分布・代謝

1 砒素化合物の人体への侵入経路はさまざまであるが、大別すると、経口系・気道系・皮膚粘膜系とに分けられ、状況によりこれらの経路が重複することも少なくない。

飲料水・食物などが汚染された場合は、口を通じ消化器官で吸収される。

亜砒酸粉塵が大気に放出され大気汚染が生じた場合には、呼吸器系及び皮膚接触による吸収が中心となる。呼吸器系を通じての曝露時には、気管支・肺から吸収されるが、一部は嚥下されて消化器からも吸収される。

皮膚粘膜系を通じての吸収については、一般に気道系・経口系に比較すれば量は少ないといわれている。

2 肺・消化器から吸収された亜砒酸は血液中に入り、全身の臓器に運ばれて、各臓器に蓄積されるようになる。体内の分布状況については必ずしも明確でないが、主として肝臓・腎・肺・消化管壁・脾臓・皮膚などに、また、量は多くないが、脳・心臓・子宮にも分布する。骨・筋肉も濃度は低いが、皮膚とともに大きな分布総量を占めている。

3 臓器に蓄積される砒素がどのような化学的形態を取るのかその全貌は明らかでないが、細胞内でSH基系酵素及びSH蛋白質と結合することは明確になっている。他にどのような形態を取るのかについては不明である。

4 砒素代謝の主たる部位は肝臓であろうと推定されている。諸臓器中の亜砒酸は、各細胞から血液中に出た後、肝臓に運搬され、そこで代謝によりメチル化が起こり、比較的毒性の弱いメチル化合物に変化し、次いで腎臓を経由して尿中に排泄される。このメチル化の詳細な過程は未解明であるが、これが砒素の解毒機序であることは疑いない。

また、体内において、三価の砒素は五価に変化するが、体内の五価の砒素の一部は三価の砒素にもなる。この五価の砒素が三価に変化することは毒性の強いものへの変化であり、このようなことが生体にとってどのような意味を持つのかは不明である。

また、砒素は毛髪、皮膚にも含まれるが、これは毛髪の脱毛・皮膚の剥離を通じての皮膚の排泄と理解することができる。

さらに、砒素は尿中にも小量排泄されるが、これは消化器官で吸収できなかった砒素及び胆汁に含まれる砒素に由来すると考えられる。

5 慢性砒素中毒症の各症状は、各臓器に蓄積された砒素が臓器を障害する結果生じると理解されている。そしてこの症状は、砒素蓄積量が各臓器に特有の閾値を超えた場合に発生する。ただ、閾値は各臓器に固有であり、砒素が多量に蓄積する臓器の閾値が高いとは限らない。したがって、発症しやすい臓器が砒素蓄積量が多いとは限らない。

三 砒素の毒性に関する生化学的知見

1 砒素は、単体か化合物か、三価か五価によらずいずれも生体に有毒であるが、その毒性の程度は形態により異なり、通常三価の砒素の方が五価の砒素よりも毒性が高いといわれている。

2 砒素は、一般に原形質毒だといわれ、細胞内でSH基系酵素やSH蛋白質と結合して、前者についていえば酵素活性を阻害する。後者についてはどのような機能が阻害されるのか、具体的な点は不明である。

SH基は生体の重要な機能を担っていると考えられており、SH基系酵素の一部は細胞の酸化還元つまり細胞の新陳代謝に不可欠のものであり、これが不活性化される結果細胞呼吸が低下することが分かっている。ただ、無数にあるSH基系酵素全部の機能は未だに分かっていない。

3 砒素は、また、平滑筋麻痺・血管系・神経系特に末梢神経系への毒作用を持つ。血管系への作用は古来(毛細)血管毒ともいわれるが、その機序としては、局所毛細血管を麻痺させるという説、交感神経麻痺により二次的に毛細血管麻痺が生じるという説がある。

4 さらに、砒素が皮膚癌・肺癌その他の癌の原因となる物質であることは、明らかにされているが、砒素による発癌の生化学的基礎は明確ではない。

5 砒素中毒に特徴的とされる皮膚の症状は、曝露後長期間経過しても遷延し、特に皮膚の角化は、砒素曝露から数十年経過後も新たに発生するなどの症状も生じるが、かかる症状について十分説明できる生化学的知見は得られていない。

6 慢性砒素中毒の典型的症状である慢性気管支炎は、砒素によって惹起された慢性炎症であるが、この炎症とは体外から来襲し又は体内に生じた障害的な刺激に対する局所防衛反応である。このことは、消化管粘膜の炎症に起因する胃腸障害にも当てはまる。

7 以上要するに、砒素の毒性の生化学的メカニズムの全貌は現在不明であり、一元的に説明することはできない。慢性砒素中毒の病像の解明に当たっては、これまで蓄積された臨床報告例その他の文献を重視する必要がある。生化学的知識は、それらの知見を説明し補強するという消極的な役割しか現段階では持ち得ない。

四 砒素中毒の症状

1 砒素は、古来から知られた代表的毒物である。集団中毒の発生事例も多く、臨床報告は豊富で、症候学的には十分な蓄積がある。砒素による発症が報告されている症状は極めて多彩であり、全身の諸臓器系に広範な障害をもたらす。

2 砒素中毒の症状についての各文献をみると、概ね一致して、砒素中毒が、皮膚、胃腸、呼吸器、眼・鼻の粘膜障害、末梢神経障害、中枢神経障害、心循環障害、肝障害、造血器障害という広範な臓器・組織に障害をもたらすことを認めている。

3 WHOの環境健康クライテリアにも、発症条件はともかく、慢性砒素中毒症が全身に広範な障害をもたらすことを裏付ける記載がある。

第二 土呂久における慢性砒素中毒症

一 砒素中毒の発見と確認

1 土呂久鉱山から排出された砒素によって地域住民が広範に健康を障害されている事実は、昭和四六年一一月一三日、岩戸小学校教諭の斉藤正健氏を中心とする教師グループが宮崎県教研集会において調査結果を報告したことが端緒となって初めて世の注目を集めるに至った。

2 右報告が契機となって、宮崎県は、同年一一月二八日、土呂久地区住民の健診に着手し、砒素中毒が疑われた住民について、熊本大学医学部附属病院及び宮崎県立延岡病院において精密検査を行い、併せて疫学調査、環境分析調査を行った。

倉恒匡徳九大医学部教授を委員長として宮崎県が設置した土呂久地区社会医学的調査専門委員会は、右調査結果に基づき、住民七名について慢性砒素中毒症との結論を下した。

二 公害地域指定及び慢性砒素中毒症認定

1 昭和四八年二月一日、環境庁は、土呂久地区を公害に係る健康被害者の救済に関する特別措置法に基づき慢性砒素中毒症の多発地域に指定した。

2 公害地域指定に伴い、宮崎県知事は、前記特別措置法及び公害健康被害補償法に基づいて、同法所定の曝露要件を満たす者の申請に基づき、その有する疾病が土呂久の砒素汚染の影響による慢性砒素中毒症であるか否かの認定業務を開始した。右認定の基準は環境庁が嘱託した各科の専門医の会合検討結果に基づいて定立され、改定を加えられてきたが、曝露要件に加え、慢性砒素中毒の主徴とされている症状の具備が必須要件とされている。

3 前記認定基準の下でこれまでに慢性砒素中毒症と認定された認定患者は、一四二名に及んでいる。認定業務は、各科の専門医で構成される公害健康被害認定審査会の審査を経て行われている。

前記認定基準及び右のような認定の実情からいって、土呂久の砒素曝露に関する慢性砒素中毒症の行政認定は、医学的に精度の高い慢性砒素中毒症診断を前提とするものであるといえるから、土呂久における慢性砒素中毒の多発は、以上の行政認定の事実だけからでも明らかである。

三 臨床症状

1 土呂久住民の臨床症状に関する各種調査研究によると、土呂久住民には、認定基準掲記の症状のみならず、広範多彩な健康障害が高率に発生していることが窺われ、いくつかの症状については対照群と較べて有意差も確認されており、有意差の確認に至らないまでも、相対的に高率に出現している症状もある。

2 右の各種調査研究で報告されている症状は、皮膚、粘膜系(呼吸器、眼・鼻・口の粘膜、胃腸)、神経系(多発性神経炎、視力・視野・嗅覚障害、中枢神経障害)、心臓循環器系等多岐にわたっており、集団的な健康の偏りが認められる。

3 これらの健康の偏りは、本件鉱山から排出された砒素が土呂久住民の健康に対し有害な影響を及ぼしていることを示している。そして、土呂久住民の健康の偏りを構成する個々の症状は、いずれも砒素によって起こり得る症状なのであるから、砒素が土呂久住民の全体的な健康の偏りを説明するに足りる有力な原因物質であることは、明白である。

4 したがって、土呂久の健康障害と砒素との関連性を個々の症状や患者ごとに検討する場合において、本件鉱山から排出された砒素による土呂久地区及び土呂久住民への汚染の影響を十分考慮する必要がある。

第二節  因果関係(各論)

第一 本件砒素曝露の特質及び曝露の態様と臨床症状との関連性

一 土呂久における砒素曝露の特質

1 土呂久地区に居住していた原告ら住民は、汚染された大気を吸引し、汚染された飲用水、農作物等の摂取を余儀なくされ、長期間にわたり継続的に、しかも四六時中、経気道、経口、経皮等の複合曝露を受けてきた。

2 労働環境中の気中有害物質濃度と一般生活環境の中の同濃度を比較すると、一般生活環境中の濃度は著しく低いことが通例である。しかし、土呂久では、一四二名の認定患者中、土呂久鉱山での就労歴を有する者が八五名、就労歴はないが鉱山周辺での居住歴を有する者が五七名で、職業性曝露のない者からも多数の認定患者が生じている。

右の事実と、土呂久では集落が山稜にはさまれた谷間に位置していること等の事実とを考え合わせると、土呂久鉱山周辺の一般環境は極めて労働環境に接近し、労働環境に匹敵する汚染を受けていたものと解される。

3 労働者と異なり、一般住民の曝露は勤務時間に限定されることなく、二四時間に及ぶこともある。労働者は、比較的健康な成人が多いのに対して一般住民の中には病弱者、乳幼児を含む小児、老人など、生物学的、社会的な弱者が含まれている。また、労働者は、職業性曝露により罹患した場合、それを理由に退職して行くことがあるのに対し、一般住民には通常逃げ場がない。これらのことから、一般住民においては、健康影響が比較的生じやすいのであり、両者における健康影響の差は環境濃度の差から推認されるより小さい。まして、土呂久の一般環境は、前述したとおり、労働環境に極めて近接連続していることに留意しなければならない。

4 以上のことから、土呂久の砒素汚染を単なる低濃度一般環境汚染ととらえ、その臨床症状をいわゆる一般環境汚染による報告例の範囲で論じることは、大きな誤謬を冒すものである。

後述する砒素中毒事例の本件への外挿に当たっては、以上のような土呂久の砒素曝露の特徴に十分留意する必要がある。

二 曝露及び中毒形態と臨床症状との関連性

砒素中毒の病像は、多様で症候学的には様々なバリエーションがある。しかし、汚染の型(汚染量、汚染期間、汚染経路)により、発症までの期間や各症状の症度及び経過は異なるが、発現する症状の種類や各症状の発現形式は、一部の局所症状を除き、汚染の型によってほとんど左右されない。つまり、経口、経気道、経皮あるいはこれらの複合形態汚染のいずれでも、また、急性、慢性を問わず、ほぼ同じ種類の症状が一定の順序で出現してくる。

一般に皮膚及び粘膜の刺激症状で始まり、次いで多発性神経炎が起こってくる経過を辿るものが多く、古くから、[1]消化器系、[2]喉頭及び気管支カタル、発疹、[3]知覚障害、[4]麻痺の四段階に分類し、急性中毒と慢性中毒の間で各症状の発現及び経路は異なっても、症状発現の順序は異ならないと指摘されている。

第二 各症状と慢性砒素中毒症との関連症

一 皮膚症状

1 皮膚症状は慢性砒素中毒症の代表的症状である。皮膚は無機砒素化合物による慢性中毒においては標的組織であり、角化症、疣贅、皮膚の黒化症、色素脱色症(白斑)を生じる。皮膚症状は、非可逆的であることが多く、曝露終了後長期間経過して発症するいわゆる晩発性も認められる。徐々に進行して悪性化し、前癌状態であるボーエン病や皮膚癌(基底細胞癌、有棘細胞癌)が発症する。

2 土呂久においても皮膚症状が多発していることは、土呂久の臨床症状に関する各報告及び本件原告らにおける出現状況に照らして明らかである。

3 以上のとおり、土呂久住民ないし原告ら認定患者が、慢性砒素中毒症に起因する皮膚障害を受けていることは明白であり、癌との関係で後述するボーエン病の発現状況に照らしても、それらの皮膚症状は現在なお進行増悪し得る状況にあるものであって、単なる後遺症でなく、予後も悪性化の危険をはらんでいる。

二 慢性呼吸器障害

1 慢性砒素中毒が慢性呼吸器障害をもたらすことについては、曝露経路いかんを問わない多くの報告があり、成書類でも共通して記述されておりそれを否定する見解はない。慢性砒素中毒による慢性呼吸器障害は、曝露停止後も進行し、肺気腫、気管支拡張症その他の続発症に進展するほか、肺癌を発症させる。

2 土呂久において、慢性呼吸器障害が自覚的にも他覚的にも高頻度に出現していることは、土呂久に関する各報告が一致して指摘しているところである。

3 以上のとおり、土呂久住民ないし原告らに出現している慢性呼吸器障害が砒素に起因している蓋然性は極めて高い。慢性呼吸器障害は、土呂久住民が日常生活面で最も支障を来している原因の一つであり、現存する症状を単なる後遺症とする根拠もない。

三 眼・鼻・口の粘膜障害

1 眼粘膜障害

慢性砒素中毒は、結膜炎、角膜炎等の眼粘膜障害をもたらし、同障害は土呂久においても多発している。したがって、土呂久住民及び原告らにみられる眼粘膜障害は、砒素に起因する蓋然性が高い。

2 鼻粘膜障害

鼻粘膜障害は、慢性砒素中毒によって発症することに異論を見ない症状である。鼻粘膜障害の結果、慢性鼻炎、副鼻腔炎、鼻中隔の瘢痕、穿孔または萎縮が生じ、それらの二次的障害として嗅覚の低下または脱失が生じる。土呂久においても鼻粘膜障害及びその二次的障害である嗅覚障害が高頻度に出現している。したがって、土呂久住民及び原告らにみられる鼻粘膜障害及び嗅覚障害は、砒素に起因する蓋然性が高い。

3 口腔粘膜障害(歯の障害)

慢性砒素中毒によって、口腔粘膜障害が生じ、さらに、そのために歯の障害が起こる。土呂久についても、歯の障害が見られ、また、口内炎、舌炎等の罹患率が高い。したがって、土呂久住民ないし原告らにみられる歯の障害についても砒素が影響している可能性は十分認められる。

四 胃腸障害

慢性砒素中毒が慢性の胃腸障害をもたらすことは、よく知られており、土呂久でも胃腸症状が多発している。したがって、土呂久住民及び原告らにみられる胃腸症状は、砒素に起因する蓋然性が高い。

五 心臓循環器障害

慢性砒素中毒は、血管系に広範な影響を及ぼし、末梢循環障害、末梢血管の内膜炎、壊疸、心電図異常、心筋障害等の心臓循環器障害をもたらす。そして、土呂久でも、心臓、循環系の障害が高率に存在する。したがって、土呂久住民ないし原告らにみられる心臓循環器障害は、砒素に起因する蓋然性が高い。

六 神経系の障害

1 末梢神経障害(多発性神経炎)

(一) 末梢神経は、慢性砒素中毒により高頻度に侵される。砒素による末梢神経障害の臨床像については、一般的に多発性神経炎の型をとり、四肢の知覚異常、じんじん感、しびれ感、疼痛、筋力低下、時に筋萎縮、下肢では歩行障害等の症状を呈するが、典型的(又は原則的)な病像としては、異常知覚・知覚低下が四肢末端(通常は下肢)から出現して上行し、いわゆる「手袋靴下型」の分布を示し、感覚・運動両神経が侵されるが、多くは感覚優位型であり、四肢深部反射は低下ないし消失し、多く末梢神経伝導速度が低下する。障害は、通常四肢両側に現れる。重篤な障害を有する患者では、位置感覚の喪失、運動失調、協調運動障害、屈曲減弱及び垂手が現れ、症状は深刻である。

(二) 土呂久でも、末梢神経障害ないし多発性神経炎が高率に発症している。

(三) したがって、土呂久住民ないし原告らに発症している末梢神経障害(多発性神経炎)は、砒素に起因する蓋然性が極めて高い。

2 視力・視野障害

(一) 慢性砒素中毒は、視力・視野を障害する。砒素中毒が視神経の障害、角膜の障害、血管変化等により視力・視野障害をもたらすことについては、相当多数の報告がある。

(二) 土呂久においても、視力・視野の障害が高率に存在する。

なお、白内障は、一般に加齢によって生じるとされているが、土呂久には単なる加齢現象を超えた白内障の多発があり、砒素曝露による老化促進または砒素の血管障害作用による眼底の動脈硬化によるものとして説明される。

(三) 以上によれば、土呂久住民ないし原告らにみられる視力・視野障害は、砒素に起因する蓋然性が高い。

3 聴力障害

砒素中毒は、聴力障害を発生させる。土呂久においても、聴力障害が高率に出現している。したがって、土呂久住民ないし原告らにみられる聴力障害は、砒素に起因する蓋然性が高い。

4 嗅覚障害

鼻粘膜障害により二次的に嗅覚が障害されること、及び、土呂久において嗅覚障害が高頻度に出現していることは、鼻粘膜障害の項で前述したとおりであり、土呂久住民ないし原告らにみられる嗅覚障害は、砒素に起因する蓋然性が高い。

5 自律神経障害

砒素により自律神経障害が発症し、交感神経随伴症状として、頭痛、めまい、振戦、性欲の喪失、発汗過多、四肢寒冷などが起こる。土呂久においても、自律神経障害の報告がある。したがって、土呂久住民ないし原告らにみられる自律神経症状は、砒素に起因する蓋然性が高い。

6 中枢神経障害

中枢神経系に対する中毒作用は、有機砒素製剤による激症型の中毒に多くその報告をみるが、無機の慢性砒素中毒による発症の報告もある。土呂久においても、砒素による中枢神経系への障害の多発を示唆する報告がある。したがって、土呂久住民ないし原告らにみられる中枢神経障害は、砒素に起因する蓋然性が高い。

七 肝障害

慢性砒素中毒は肝臓に障害を及ぼし、肝障害、肝腫大、肝硬変をもたらす。土呂久においても、肝障害の発現が(その多発は明確ではないが)報告されている。したがって、慢性砒素中毒により肝障害が発生することは明らかである。

八 造血器障害(貧血)

慢性砒素中毒は、貧血、白血球減少等の造血器障害をもたらす。土呂久については、造血器障害の多発を示唆する報告はないが、慢性砒素中毒と診断され他の臓器を障害されている患者に造血器障害がある場合、これについて慢性砒素中毒が寄与している可能性は十分考えられる。

九 腎障害

砒素による腎障害の出現に関する報告例は、他の臓器に較べ著しく少ないが、慢性砒素中毒により腎臓が障害される可能性は十分認められる。土呂久において腎障害が多発しているという報告はないが、砒素に起因する心臓循環器系の障害が認められる土呂久の患者に腎障害が認められる場合には、これについても砒素に起因している可能性がある。

第三 癌(悪性腫瘍)

一 皮膚悪性腫瘍(ボーエン病及び皮膚癌)

ボーエン病及び皮膚癌が、砒素によって生じることについては、十分な疫学的証拠があり、特にボーエン病は、砒素を主要な発症因子とする皮膚科の知見があるところからみて、砒素起因性を強く推定できるうえ、ボーエン病が真皮に浸潤して皮膚癌に進行することも十分な報告例があるから、皮膚悪性腫瘍と砒素との一般的因果関係は疑う余地がない。のみならず、砒素性の皮膚症状(色素沈着・脱失・角化症)も発症の機序は発癌と同様ないし類似のものと考えられているから、砒素性皮膚症が認められれば、同じ発癌因子である砒素が身体の他の臓器にも作用している蓋然性があると考えるのが自然である。

以上からすれば、皮膚悪性腫瘍については、慢性砒素中毒罹患者に発症しただけでも、特段の事情がない限り、砒素に起因する蓋然性が高いと認められる。

二 呼吸器癌

肺癌を含む呼吸器癌についても、砒素の経気道、経口曝露を問わず、砒素によって生じることにつき疫学的証明は十分である。したがって、慢性砒素中毒罹患者に生じた呼吸器癌は、砒素に起因している蓋然性が極めて高い。

三 肝癌、泌尿生殖器癌等

肝癌、肝血管内皮腫、泌尿生殖器癌(膀胱癌、尿管癌、前立腺癌等)、リンパ腺が砒素曝露によって高率発症することについては、疫学的報告もあり、症例報告も相当数あって、土呂久でも発症の報告があるが、未だ十分な証拠があるとまではいえず、したがって、砒素によって生じる高度の蓋然性があるとまではいえない。

しかしながら、これらの癌について砒素起因の蓋然性はあり、これに、系統的発癌因子とされる砒素にその固体(被害者)が障害されやすいと認められるような事実、すなわち、当該被害者に砒素角化症、ボーエン病や皮膚癌、肺癌などと重複してその癌が発症している場合は、高度の蓋然性をもって砒素起因性を認めることができる。また、右のような重複癌が認められない場合でも、癌以外の重篤な症状が複数あるなど、砒素が他の全身諸臓器を侵襲していることが認められれば、右と同様に、その癌につき砒素に起因する高度の蓋然性が肯定されてよい。

四 造血器系の癌、消化器癌等

造血器系の癌、消化器癌(胃癌、結腸癌など)、子宮癌、乳癌などのその他の癌については、複数の砒素中毒事例の疫学調査報告や症例報告中に、有意の高率発生を報じたものや発症報告例があるが、砒素によって生じる可能性が認められるに止まる程度にしか証明されていない。

しかしながら、皮膚悪性腫瘍、呼吸器癌と重複して発生しており、かつ、癌以外の他の重要症状が複数発症して全身諸臓器が砒素により侵襲されていると認められれば、その癌も砒素に起因する蓋然性が高いと認めてよい。

第三章  責任

第一節  被告の法的責任

第一 被告に対する請求の根拠

被告は、昭和四二年四月一九日土呂久鉱山の鉱業権(宮崎権採登第六五号鉱区及び同第八〇号鉱区)を取得し、昭和四八年六月二二日これを放棄した。したがって、被告は、〈1〉昭和四二年四月一九日以前に発生した損害については、鉱業法一〇九条三項の鉱業権の承継人として、〈2〉昭和四二年四月一九日以降昭和四八年六月二二日までの間に発生した損害については、同法一〇九条一項前段の損害発生時の鉱業権者として、〈3〉昭和四八年六月二二日以降発生した損害については、同法一〇九条一項後段の鉱業権消滅時の鉱業権者として、それぞれ責任を負う。

第二 被告の主張に対する反論

一 稼業なき鉱業権者の責任

被告は、不法行為責任は自己の行為に対して責任を負うのであり他人の行為に対して責任を負うものではなく、これが法の基本理念であり原則であるとして、鉱業法上の損害賠償責任の規定も稼業なき鉱業権者には適用されないと主張しているが、以下の理由から、同主張は採用し得ない。

1 鉱害は、未採掘鉱物の採集や製錬のための人と機械の複雑な仕組みによる各種原因行為によるものであり、その損害発生までに相当の時間の経過を要し、その範囲は広範囲にわたる。したがって、鉱害の原因がどの時代の誰の行為によるものであるかを証明することは極めて困難である。そこで、鉱業法は、鉱害の原因となった行為やその行為主体を直接問題とすることなく、行為や行為者の基礎にある鉱業権自体に着目し、鉱業権自体に鉱害に関する匿れた責任が付着しているものとして捉えたのである。したがって、当該鉱業権に基礎を置く行為によって発生した損害である限り、その行為が行われたのがいつで、それを行ったのが誰であるか、といったことを法は問わないことにしたのである。このように解することは、鉱害の原因に関係ない者に賠償責任を負わせる結果となる場合もないとはいえないが、損害発生当時の鉱業権者は、その損害が前鉱業権者の作業によるものであることを立証した場合でも、賠償の責任を免れることはできないとしたのである。

2 右のように、鉱業法は、被告主張のごとき従来の不法行為責任に関する原則を修正したものであるが、このことは、特に鉱業法一〇九条三項において、損害発生の後に鉱業権を譲り受けた鉱業権者に対しその損害について責任を負わせていること、すなわち、「他人」である従前の鉱業権者の行為による責任を負わせていることからも明らかである。

3 鉱業法が責任を負わせる「他人」といっても、それは、赤の他人ではなく、いわば鉱業権という糸によって強く結び付けられた他人なのであり、もし鉱業権者がそのような責任を負うことを厭うならば、当該鉱業権を取得しなければよいだけのことである。また、譲受けの対価の決定に当たり、譲受け後自己が負担すべき賠償責任を考慮に入れてそれを定めればよいのである。

4 第七四回帝国議会貴族院鉱業法中改正法律案特別委員会の議事録中には、政府委員が、鉱業権の承継があって承継後の鉱業権者が何ら捨石・鉱滓の堆積をしなかった場合には、当該譲受鉱業権者は責任を負わないかのごとき答弁をしているように見える部分が存するが、その前の部分と総合すると、このときの議論は、鉱業権の承継があった場合についてのものでなく、鉱業権が一旦放棄され同一地域にその後また新たに鉱業権が出願設定された場合のことを言っているのであり、そのような場合に後の鉱業権者が責任を負わないのは当然のことである。

5 盗掘によって損害が生じた場合には、当該鉱区の鉱業権者は鉱業法上の賠償責任を負わず、盗掘者が民法上の責任を負うと解される。鉱業法の賠償規定は、前述のように、当該原因行為の基礎となっている鉱業権自体に着目したものであり、盗掘の場合は、当該鉱業権とは全く無縁の行為であり、盗掘者も鉱業権者とは全く無関係なのであるから、鉱業権者が責任を負わないことは当然である。

6 鉱業権は、稼業する義務を含むものであり、そもそも「稼業を全然することのない鉱業権者」やそのために「賠償責任を負わない鉱業権者」の存在など法の許容しないところなのである。

7 鉱山鉱害は、稼業によってのみ生じるものではなく、稼業を休止ないし廃止した後も、坑水の放流や捨石若しくは鉱滓の堆積が継続する限り、それらを汚染源として発生し続けるのが大きな特質であり、鉱業法の賠償規定は、この特質を踏まえて制定されたと理解すべきである。

そもそも鉱業法一〇九条所定の原因行為中には、稼業時か稼業時でないかを問わないところの不作為形態としての坑水を流れるままに放置する行為、捨石・鉱滓を堆積したままに放置する行為が考えられるのである。このような不作為は稼業をしない鉱業権者も当然行っているのであるから、同法が稼業なき鉱業権者に適用されるのは、当然といわなければならない。

二 旧鉱業法改正法施行前に発生した損害についての鉱業権譲受人の責任

1 現行鉱業法施行法三五条と昭和一四年以前の損害

(一) 鉱業法施行法三五条二項は、「新法の施行前に旧鉱業法七四の二の規定によって生じた旧鉱業法による鉱業権者の賠償の責任については、従前の例による」と定めており、この規定によれば、昭和一四年以前(旧鉱業法改正法施行前)に生じた損害については、改正法附則四項により同法七四条の二第一項が適用され、昭和一四年以前の鉱業権者が損害発生時の鉱業権者として責任を負う。

(二) 鉱業法施行法三五条四項は、〈1〉損害発生時の鉱業権者が同条二項により旧法の規定によって損害賠償の責任を負うこと、〈2〉右鉱業権が新法一条の規定により新法による鉱業権とみなされるものであること、〈3〉右鉱業権が新法施行後に譲渡されたこと、の三つの要件が満たされた場合には、新法一〇九条三項の規定が適用されると定めている。

本件における昭和一四年以前の損害については、〈1〉の要件は(一)に述べたとおり満たされており、〈2〉及び〈3〉の要件も満たされているので、鉱業法施行法三五条四項により新法一〇九条三項が適用され、新法施行後に鉱業権を譲り受けた被告は、昭和一四年以前の鉱業権者と連帯して責任を負うこととなる。

(三) このように解釈することについては、被害者救済という社会的必要性はもちろんのこと、そもそも旧鉱業法改正法の立法趣旨からしても、同法施行前の損害に関する鉱業権者の責任についてだけ同法施行後に生じた損害に関する鉱業権者の責任とは別異に鉱業権譲受人の責任を否定することは合理的でなかったのであるから、この点からも何ら問題はないのである。

(四) 被告は、鉱業法一〇九条三項が「連帯債務」と規定する以上、連帯関係に立つ新鉱業権者(譲受人)が被連帯者たる旧鉱業権者(譲渡人)の負担する以上の内容を負うことは、法律上あり得ないと主張する。

しかし、鉱業法による連帯の相手方は、譲渡人ではなく、あくまで損害発生時の鉱業権者である。したがって、仮に譲渡人と譲受人とで負担する債務の内容が異なるとしても、法律上は何ら問題がないのである。

2 昭和一四年以前の損害と旧鉱業法改正法附則

(一) 被告は、現行鉱業法一〇九条と同旨の旧鉱業法七四条の二は、昭和一四年の旧鉱業法の改正によって新たに制定された規定であるが、同法の施行に関する改正法附則の規定からして、改正法施行(昭和一五年一月一日)以前に発生した損害については、損害発生後に鉱業権を譲り受けた者が責任を負うことはない、と主張している。

このことは、現行鉱業法施行法につき前記1の解釈をとる限り、被告の責任を論ずるに当たり、問題となる余地がないのであるが、被告の右主張自体誤りであるので、念のため以下に指摘しておく。

(二) 旧鉱業法七四条の二第三項の規定は、既に発生している損害賠償義務について鉱業権の譲渡が行われた場合、新鉱業権者にも当然義務を連帯して負担させるというものである。ところで、法律の遡及・不遡及を分ける基準は、当該法律による効果を発生させるところの要件たる行為が、当該効果を受ける行為主体によって行われたのが、当該法律の施行前か後かということであり、これを右規定についてみると、既に発生している損害賠償義務の負担という当該効果を発生させる行為は当該法律効果を受ける行為主体たる新鉱業権者による鉱業権の譲り受けということになり、その行為がなされた時点で同規定施行時より前か後かということが、遡及・不遡及を分ける基準となる。

(三) 以上からすると、旧鉱業法七四条の二第三項の規定を、同法施行後の譲渡行為に適用するのは、当然のことであって、何ら「遡及適用」という概念が入る余地はない。旧鉱業法七四条の二第三項について遡及適用ということが問題になるとすれば、それは、右規定の施行前に行われた鉱業権の譲り受け行為に同法を適用する場合のみである。

(四) 旧鉱業法改正法附則四項は、同法七四条の二第一項、第二項、第四項のみを掲げ、同第三項についてはこれを掲げていないから、同第三項が不遡及であることは間違いないが、ここにいう不遡及の意味は、前述のとおり、同規定の施行日以前の鉱業権の譲り受け行為には同規定を適用しないというにすぎない。

三 昭和一二年以前の亜砒酸製造と被告の責任

1 昭和一二年に採登第六五号鉱区と第八〇号鉱区とが合併事業となる以前の土呂久鉱山での亜砒酸製造は、専ら採登第八〇号鉱区の鉱業権に基づくものであった。すなわち、大正九年から昭和七年までは竹内令サクが、同年から昭和八年まではその息子の竹内勲が、さらに、昭和九年から昭和一一年までは中島門吉が、それぞれ同鉱区の鉱業権者として、土呂久鉱山における亜砒酸製造を行っていたのである。

2 被告主張の川田平三郎らが、土呂久鉱山において亜砒酸製造に従事していたことは事実であるが、同人らは、いずれも竹内令サク及び竹内勲に雇用されて、いわば鉱山の所長として責任者の地位にあった者であるか、ないしは、鉱業代理人としての地位にあった者である。

3 昭和九年から昭和一一年まで土呂久鉱山で亜砒酸製造を行ったのは、鉱業権者である中島門吉であった。そして、岩戸鉱山株式会社は、中島門吉が中心となって設立し同人が代表取締役となっている会社であるから、中島門吉から岩戸鉱山株式会社への鉱業権の移転は、鉱業権者が形式上法人成りしたにすぎない。してみれば、亜砒酸製造の形態も、鉱業権者が中島個人の時点と岩戸鉱山株式会社になった時点とで相違があるとは考えられない。

4 土呂久鉱山においては、採掘と製錬とが、まさに一体となって一つの連続する不可分の事業として行われていたのであり、製錬のみが独立していたわけではない。したがって、採掘と製錬の分離を前提にして、鉱業権者と製錬業者の分離をいう被告の主張は、失当である。

5 仮に、川田らが鉱業権者に雇用されていた者ではなく、鉱業権者とは別個の第三者であったとしても、川田らは製錬と採掘とを一体不可分のものとして行っていたものであり、その実態は、いわゆる斤先掘(鉱業権者が自ら鉱業を実施せず、一定の対価のもとに、その全部又は一部を第三者に行わせる契約)であった。そして、斤先掘者の行為によって第三者に損害を与えたときは、鉱業権者が責任を負うのであるから、川田ら斤先掘者の行為によって発生した損害について、被告が責任を免れないのは明らかである。

四 鉱業法一一六条の適用について

1 本件における砒素や亜硫酸ガスによる汚染は、職場領域のみに限局されたものでなく、居住環境を含む土呂久地区全域に及んでいる。鉱山に就業中の者も、鉱山就業歴を有しない土呂久地区居住者と同様に、砒素に汚染された用水を飲用し、同じく高度に汚染された空気に触れその中で生活することを余儀なくされていたのである。つまり、鉱山に就業中の者も、当然に高度の居住性曝露を受けていたのであって、曝露の状況や程度を業務上と業務外とに区別することは不可能である。

2 現実にも、慢性砒素中毒症の認定を受けた者の中には、多数の鉱山就業歴を有しない者が存在するのであって、居住性曝露のみで健康被害を発生させるに十分であったことが明らかである。そうすると、鉱山就業と疾病への罹患との間には、前者がなければ後者がなかったという意味での因果関係が成り立たないといわなければならない。

3 被告主張の一一名の者のうち、亡米田嵩、亡佐藤建吉及び矢津田近の三名の者は、土呂久地区に居住歴を有せず、主な居住地は上寺部落であったが、通退勤の途上及び昼食時の休憩時間に亜砒酸あるいは亜硫酸ガスに汚染された大気に触れたことは明らかであり、また、右三名にとっては、土呂久地区も同僚を訪ね、山林・田畑等に出入りする一帯としての生活圏であったのだから、業務外の生活過程での砒素曝露があったということができる。

4 被告主張の一一名の者につき鉱業法一一六条を適用するとなると、この者らは、旧鉱業法八〇条により就労当時の鉱業者に対し扶助を求めるしか救済の途がないが、就労当時の鉱業権者は現存しないから扶助請求権が成立しないという不合理な結果を生じることになる。

第二節  被告の加害責任

第一 はじめに

被告は、単に鉱業権を取得したことから生ずる鉱業法上の連帯責任という、いわば法律形式から当然に負わなければいけない責任を負う立場に止まる者では決してない。以下に述べるように、被告は、戦後の土呂久鉱山の操業を通じて、中島鉱山株式会社(以下「中島鉱山」という。)の協同者として、そして後には事実上の経営者として、実質的な加害の責任を負うべき立場にあったものであり、土呂久鉱山の操業による本件加害について、自らその操業の事実上の経営主体として、法形式上だけの存在である中島鉱山と同一の責任を負うべきものである。

したがって、被告の「稼業なき鉱業権者」を前提とする議論は、たまたま自己の名を掲げて操業したことがないことを奇貨とした誠に空々しいものにすぎず、失当の謗りを免れない。

第二 加害の協同と加害操業の支配

一 戦後の中島鉱山の操業への資金供与

被告は、昭和二五年ころから中島鉱山と鉱石の取引関係を結んで、昭和三三年までその関係を継続し、その間、前渡金名下に経常的に資金の融通をしてきた。右前渡金は、中島鉱山からの買鉱に名を借りてはいるが、実際には買鉱の実績はほとんどなく、中島鉱山の、ひいては土呂久鉱山の操業を資金的に援助し、それを通じて中島鉱山を自社の支配系列下に取り込もうとする目的から支払われたものである。

被告は、中島鉱山の要請に対して、前渡金名下の融資のほかにも、随時同社の必要とするところに応じてその操業ないし設備資金を融通していたものである。

そして、昭和三〇年二月には、中島鉱山に対し、土呂久鉱山に隣接する黒葛原鉱山の鉱業権を譲渡して、土呂久鉱山と一体とする開発を行わしめたのである。

二 被告よる中島鉱山の経営支配

昭和三三年七月に土呂久鉱山で大規模な出水事故が発生し、大切坑以下の坑道が水没したため、中島鉱山は、操業の中止を余儀なくされ、その経営が危殆に瀕した。そこで、被告は、同年一〇月、子会社の大口鉱業株式会社の代表取締役を中島鉱山の代表取締役として就任せしめ、経営陣を大口鉱業株式会社の役員をもって一新するとともに、同年一一月には、福岡市に本店を置いた鯛生鉱業株式会社を大口鉱業株式会社に吸収合併してその商号を鯛生鉱業株式会社と変更し、爾来右子会社を介して土呂久鉱山の操業に関わるに至った。

一方、中島鉱山の資本構成の面からみると、被告は、昭和三三年九月当時一七万九二〇〇株(約七〇パーセント)の株式を、昭和三四年三月当時には二〇万四八〇〇株(約八〇パーセント)の株式をそれぞれ所有し、中島鉱山の発行済株式の大部分を握る筆頭株主の立場にあった。

こうして、被告は、資本構成・経営の両面において中島鉱山を完全に支配し、その操業に全面的に関わって行った。そして、その後、土呂久鉱山が昭和三七年水没により休山するに至るまでの間、同鉱山の操業を継続し、探鉱を行って、中島鉱山の経営を維持してきたのである。

三 土呂久鉱山の鉱業権の譲受け

土呂久鉱山における収益を失った中島鉱山は、昭和四一年一二月二〇日解散し、昭和四二年三月一七日清算を結了して消滅したが、被告は、その際、唯一の大手債権者として計一億二五〇〇万余円の債権を有し、これの弁済に代えて中島鉱山が土呂久地区及びその近隣に有した鉱業権を中島鉱山の所有土地とともに譲り受ける形で、名実とともに取得した。

四 以上から明らかなように、被告は、戦後の中島鉱山の経営を融資を通じて資金的に事実上支配してきたに止まらず、最終的には、その株式をほとんど取得して経営上も完全に中島鉱山を支配したものである。

第四章  損害

第一節  本件被害の特殊性

第一 総体としての被害

原告らが受けた被害は健康被害が最も深刻かつ甚大であるが、それにとどまらず、下記に述べるとおり健康被害のほか社会的、経済的、家庭的、精神的被害などのすべてを包括する総体である。

一 健康被害

土呂久地区における前述した健康被害によって、原告らは生存する能力を、そして、死亡した者らは生存そのものを奪われた。鉱毒によって、土呂久の住民は、一家族全員が死に絶える等死亡者が相次ぎ、多くの住民が数世代にわたる苦しみを受けた。救済の方法も知らず、業病としての忍苦を強いられてきた。原告らの健康被害は、このような長期にわたる人間破壊である。

二 環境破壊

鉱毒は、土呂久の恵まれた自然環境を破壊した。原告ら住民はこのような環境の中で鉱毒に汚染された大気に曝露し、あるいはこれを吸入し、汚染、汚濁された食物、飲用水の摂取を余儀なくされて、右の健康被害をこうむった。鉱毒は、健康な人間生活のあらゆる領域において、原告ら土呂久住民から生存の前提たるべき環境と条件を奪った。

三 生活破壊

さらに、鉱毒は生産基盤を破壊することによって、原告ら住民の生活を破壊した。土呂久は元来清浄な空気と水に恵まれ、原告ら住民はその自然の中で田畑を耕し、畜産、養蚕、養蜂を行い椎茸を栽培し、木材、薪炭を産出するなどして、長年平和に生活を営んできた。しかし、土呂久鉱山の排出する鉱毒のため、その生産基盤であった自然環境は一変した。それは、生活に必要不可欠な大地、山林、畑、建物、道路、農作物等を始め、地域のありとあらゆるものを汚染し、生産基盤を破壊すると同時に、原告らを含めて、地域の生活を破壊した。

四 家庭破壊

鉱毒は、原告ら土呂久住民を、家族ぐるみ侵襲した。乳児の死亡、死産、一家の主柱や主婦が罹患して倒れるなど、原告らの個人的生活、家庭生活は完全に破壊された。また、娘時代に発病した原告は、生涯結婚できず、家庭を形成する権利すらも奪われた。

五 村落共同体の破壊

人間は社会的な存在であって孤独では生きられない。鉱毒は、単に原告らの健康や自然環境、生活環境、家庭生活を破壊したのみではなく、原告らが豊かな生活を営んでいくために必須の基盤である村落共同体を破壊した。土呂久の豊かな風土や生活基盤に成り立っていた共同体は、鉱毒によって構成員が数世代にわたり無数に苦しめられ、被害補償をめぐって対立と抗争が生じて分裂した。

鉱毒は原告らから、本来共同体の一員として享受し得たはずの諸々の生活利益を奪った。これを切り離して論ずることは、数世代に至る村落共同体全体の被害という土呂久鉱毒特有の深刻さ、悲惨を見落とすことになる。

第二 健康被害の全身性と進行性

一 症状の全身性

1 土呂久の砒素中毒の病像は、全身の諸臓器に広範囲な障害をもたらす全身性の中毒症状である。鼻、気管支、肺、胃、腸、肝臓、皮膚、粘膜、神経系統等全身に症状は及び、発癌に至る危険が高い。原告らは、全身のありとあらゆる臓器を病んでいる。このような全身症状の場合は、個々の症状のもたらす苦しみも、全身諸臓器にわたる症状との関連で捉えなければならない。

2 原告らの症状の中には、症状自体としてはありふれたもののように見えるものもある。しかし、それが全身諸臓器にわたると、累積され超過した、特有の激しい苦痛と生活障害をもたらす。しかも、既存の苦痛に耐えていた者にとっては、わずかな苦痛があらたに加わっても、耐えられない苦痛となる。

二 症状の進行性

1 鉱山操業中の砒素の大量曝露が止んだ後も症状は好転せず、原告らは、初発以来何十年もの長期間にわたり、右の全身症状によって苦痛を受けている。しかも、現在も増悪に向かって進行している。治療方法は症状ごとの対症療法しかない。毎日を死と隣り合わせている苦しみは筆舌に尽くし難い。

2 提訴した原告らは「生き残った者」であった。本判決を見ることなく、佐藤千代三、佐藤タモ、佐藤建吉、富高暁、富高コユキ、佐藤ミナト、米田嵩、大崎袈裟蔵、甲斐国頼の九名が死亡した。いずれも砒素中毒に苦しみながら死亡したものである。

第二節  賠償請求の方式

第一 包括請求

原告らは、損害を包括して賠償請求するものである。

すなわち、前述したとおり、原告らは土呂久鉱山の鉱毒によって、甚大かつ重篤な健康被害を受け、多数の原告が提訴後相次いで死亡した。そればかりでなく、環境破壊、生活破壊その他多方面にわたる様々な被害を受けた。これらの被害は相互に関連し合いながら、累積し相乗して被害を拡大し、原告らの全人間的破壊をもたらした。これらの被害の総体が原告らの損害であるから、これを包括的に把握しなければ、原告らの損害の正当な評価はできない。しかも、このような被害の特殊性にかんがみると、原告らの長期間にわたる多方面の損害を個々に細分化して主張し立証することは、およそ不可能である。

第二 一律慰謝料請求

原告らは、損害額を一律に、慰謝料の形式で請求するものである。

損害額を一律に請求する根拠は、損害の共通性と損害評価の同一性にある。すなわち、前記第一節に述べた事由が、被害者たる原告ら全員に共通して認められるし、健康被害に個人差があることは否定できないが、重要な意味をもつ重篤性と進行性においては、死亡者と生存者を分けるのは別として、細かなランク付けをしなければならないほどの差異は見出せない。

第三節  考慮すべき事由

土呂久鉱毒事件が明るみになってから、被告が県知事斡旋を通じて被害者に示した態度は、到底誠意があると認められない。かつ県知事斡旋を盾にして、自主的な交渉には全く応じようとしなかったことは、以前の鉱業権者が権力の威光をかさに着て、被害を無視し続けた歴史の繰り返しであって、原告らの苦痛を倍加させた。

本訴の応訴態度を見ても、被告は争う余地のない事実まで争い、立証の必要があると称して、又、調査検討中と称して訴訟を延引し、原告らを苦しめた。原告らは訴訟を遂行するため、莫大な経済的負担と時間を費やして準備にあたらなければならなかった。

以上のような被告の不当な態度は、慰謝料の算定にあたり、当然斟酌されなければならない。

第四節  賠償請求の額

第一節ないし第三節に述べた本件損害の事情からすれば、被害者らに支払われるべき慰謝料の額は、死亡した被害者については一律に六〇〇〇万円、その他の被害者については一律に四〇〇〇万円とするのが相当である。

第五節  相続関係

第一 訴訟前に死亡した被害者

本件被害者らのうち、佐藤ミナトは昭和五四年一〇月二五日に、米田嵩は昭和五五年三月一四日に、大崎袈裟蔵は昭和五四年二月一日に、甲斐国頼は昭和五五年七月三一日にそれぞれ死亡し、同人らについて相続が開始した。

そこで同人らの前記損害賠償請求権は、別表「請求金額一覧表(三)」掲記の原告らが、同表掲記の法定相続分に応じて、同表掲記の額につきそれぞれ相続した。

第二 提訴後に死亡した被害者

本件被害者にして、原告として本訴を提起した者らのうち、佐藤千代三は昭和六三年七月二七日に、佐藤タモは昭和六一年三月一一日に、佐藤建吉は昭和六三年八月一五日に、富高暁は昭和六三年八月一二日に、富高コユキは昭和六三年四月二六日にそれぞれ死亡し、同人らについて相続が開始した。

そこで同人らの前記損害賠償請求権は、別表「請求金額一覧表(二)」掲記の訴訟承継人原告らが、同表掲記の法定相続分に応じて、同表掲記の額につきそれぞれ相続した(なお、富高コユキの相続については、正確に言えば当時存命していた富高暁が二分の一を相続し、同表掲記のコユキの相続人らが各一二分の一をそれぞれ相続し、その後富高暁が相続取得した右二分の一の部分を、同人の死亡によって同表掲記の暁の相続人ら-コユキについての右相続人らに同じ-が相続したことになるのであるが、結局のところ右相続人らが、コユキの損害賠償請求権を、一部は富高暁を介することにより、各六分の一ずつ相続取得したことになるから、便宜右別表のように主張しているものと解釈する。)。

第六節  弁護士費用

原告らは、本訴の遂行を原告ら代理人弁護士に委任し、その費用・報酬として別表「請求金額一覧表(一)」、同「請求金額一覧表(二)」、同「請求金額一覧表(三)」の各弁護士費用欄掲記のとおりの金員を支払う旨約したので、右各金員も損害金として併せて請求する。

第五章  結語

よって、原告らは被告に対し、鉱業法一〇九条に基づく損害賠償として、別表「請求金額一覧表(一)」、同「請求金額一覧表(二)」、同「請求金額一覧表(三)」の「請求金額」欄掲記の各金員及びその内金である右各表の「弁護士費用以外部分」欄掲記の各金員に対する、各訴状送達の日の翌日である、原告富高由子、同寺田ユキノ、同工藤八千枝について昭和六〇年三月一五日から、その余の原告らについては昭和五九年一一月一八日から各支払済みまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第二編 請求原因に対する認否

第一章  加害行為

第一節  土呂久鉱山の概要及び本件当事者

すべて認める。

第二節  汚染源

第一 鉱煙の排出

一 戦前における亜砒酸の製造

争う。

二 戦後における亜砒酸の製造

争う。

三 亜砒焼き窯からの亜砒酸の排出

否認する。

四 亜硫酸ガスの排出

否認する。

第二 捨石及び鉱滓の堆積

一 堆積場所及び堆積方法

否認する。

二 捨石及び鉱滓による汚染

否認する。

三 亜砒焼き窯の放置

争う。

第三 坑内水の放流

一 大量の土呂久川への流出

否認する。

二 坑内水の土呂久川への放流

否認する。

第二節  環境破壊-鉱毒被害-

第一 大気汚染

一 土呂久の地形の特徴

争う。

二 土呂久の大気汚染の気象メカニズム

争う。

三 土呂久の大気汚染現象

否認する。

第二 土壌汚染

一 亜砒酸粉塵の降下

否認する。

二 捨石及び鉱滓中の砒素による汚染

否認する。

三 亜硫酸ガスによる汚染

否認する。

四 操業中止・閉山後の汚染

否認する。

第三 川水・生活用水の汚濁

否認する。

第三節  環境破壊がもたらした生活破壊

第一 大正年間の環境破壊と生活破壊

一 農業、養蜂等の被害

否認する。

二 畜産の崩壊

否認する。

第二 昭和における環境破壊と生活破壊

一 戦前

否認する。

二 戦後

否認する。

第二章  因果関係

第一節  因果関係(総論)

第一 砒素中毒に関する基礎的知見

一 砒素の化学的性質

争う。

二 吸収・体内分布・代謝

争う。

三 砒素の毒性に関する生化学的知見

争う。

四 砒素中毒の症状

争う。

第二 土呂久における慢性砒素中毒症

一 砒素中毒の発見と確認

1の事実は否認し、2の事実は認める。

二 公害地域指定及び慢性砒素中毒症認定

1、2の事実は認め、3の事実は争う。

三 臨床症状

争う。

第二節  因果関係(各論)

第一 本件砒素曝露の特質及び曝露の態様と臨床症状との関連性

一 土呂久における砒素曝露の性質

争う。

二 曝露及び中毒形態と臨床症状との関連性

争う。

第二 各症状と慢性砒素中毒症との関連性

一 皮膚症状

争う。

二 慢性呼吸器障害

争う。

三 眼・鼻・口の粘膜障害

争う。

四 胃腸障害

争う。

五 心臓循環器障害

争う。

六 神経系の障害

1 末梢神経障害(多発性神経炎)

争う。

2 視力・視野障害

争う。

3 聴力障害

争う。

4 嗅覚障害

争う。

5 自律神経障害

争う。

6 中枢神経障害

争う。

7 肝障害

争う。

8 造血器障害(貧血)

争う。

9 腎障害

争う。

第三 癌(悪性腫瘍)

一 皮膚悪性腫瘍(ボーエン病及び皮膚癌)

争う。

二 呼吸器癌

争う。

三 肝癌、泌尿生殖器癌等

争う。

四 造血器系の癌、消化器癌等

争う。

第三章  被告の責任

すべて争う。

第四章  損害

第一節  本件被害の特殊性(損害総論)

第一 総体としての被害

争う。

一 健康被害

否認する。

二 環境破壊

否認する。

三 生活破壊

否認する。

四 家庭破壊

否認する。

五 村落共同体の破壊

否認する。

第二 健康被害の全身性と進行性

一 症状の全身性

否認ないし争う。

二 症状の進行性

否認する。

第二節  賠償請求の方式

第一 包括請求

争う。

第二 一律慰謝料請求

争う。

第三節  考慮すべき事由

争う。

第四節  賠償請求の額

否認ないし争う。

第五節  損害各論

第一 本件被害者ら各人の損害

否認する。

第二 相続関係

各死亡の点は認める。

第三 弁護士費用

不知。

第三編 請求原因に対する反論

第一章  加害行為に関する反論

第一節  汚染源について

第一 鉱煙の排出について

一 亜砒酸製造の時期

土呂久鉱山において亜砒酸が製造された期間は、大正九年ころから大正末年ころまでの約六年間(旧々窯時代)、昭和六年から昭和一六年一一月までの約一〇年間(旧窯時代)及び昭和三〇年三月から昭和三七年九月までの約七年間(新窯時代)であった。少なくとも、昭和二年から昭和五年までの約四年間は、土呂久において亜砒酸の製造は中断されていたと、推測できる。

二 亜砒酸製造の設備

1 旧々窯時代の亜砒焼きの設備の詳細は不明であるが、当時の亜砒酸製造もその後のそれと同様に揮発焙焼法によっていたと考えられ、そうすると、焙焼炉のほかに収砒室が併設されていたということができる。

2 旧窯時代には、粗製窯と精製窯との二種類があり、粗製窯は、一番坑の坑口の右側に二ないし三基、左側に一基、精製窯は、一番坑の左側に一基それぞれ設置されていた。

3 粗製窯の外観は、長さ一〇ないし一一メートル、横幅約五メートル、高さ約三メートルの箱型で、その内部に、焙焼炉一室と収砒室三室とが直列的に存し、外壁及び各室を区切る内壁は、いずれも石積であってこれを粘土で塗り固めたものであった。焙焼炉と収砒室、収砒室と収砒室は、狭い煙道で結ばれており、最端の収砒室の末端には高さ約二メートルの煙突が存した。

4 精製窯の大きさは不明であるが、その構造は粗製窯に似ており、収砒室は四室であった。

5 戦後の新窯は、土呂久川や住家所在地よりはるかに高い、高低差約一〇〇メートル上の山の中腹部に設けられた。中島鉱山株式会社は、排煙による鉱害を防止する目的で、敢えて、鉱石の製錬には極めて非能率・非経済的なこの高所を選んだのであった。

6 新焙焼炉は、内径一メートル、外径一・五メートル、高さ三メートルの円筒型堅炉で、鉄板製の炉殻の内部に耐火煉瓦を内張りとし、炉底にロストルを有し、収砒室へ鉄板製の連絡煙道を有する構造であった。原料装入のため炉上部に鉄製蓋付の装入孔があり、炉本体と上部の炉蓋及び炉蓋と装入孔の取付部分は、ともに漏煙防止(サンドシール)構造となっていた。収砒室は、幅三メートル、高さ三メートル、長さ約一四メートルの石垣積みで、この室内をさらに石垣で仕切り四室に区分し、各室はそれぞれ煙道で連結し、収砒室の終端より煙突に連結されている構造であった。

三 亜砒酸製造の実態

1 粗製窯では、焙焼炉の薪の上に硫砒鉄鉱(砒鉱)を入れ、薪の火から砒鉱に含まれる硫黄に着火させると、以後は他の燃料を加えることなく砒鉱は自燃し、それにより砒鉱の焙焼がなされた。また、精製窯の場合は、窯の奥に粗製亜砒酸(粗砒)を並べ、これを炉内の手前に入れた木炭の反射熱で焙焼した。

2 焙焼により炉内の温度が摂氏二〇〇度前後になると昇華が起こり、砒鉱または粗砒の中の砒素成分が亜砒酸ガスとなって、自然通風により収砒室に導かれ、収砒室では温度が下がるため、凝縮して結晶となり沈降した。亜砒酸ガスの低下温度は第一収砒室が一番大きいので、亜砒酸は第一収砒室及び第二収砒室にそのほとんどが沈降し、第三収砒室に到達する亜砒酸の量は少なかった。

3 以上の製造方法の場合、焙焼炉での燃焼速度が早いと通風力が大きくなり、収砒室での亜砒酸の固体化が十分に促進されないままに、気体化した亜砒酸が煙突から飛散して回収率を低下させてしまう結果となる。しかしながら、当時業として亜砒酸製造を行っていたからには、焙焼炉では、自然通風によりゆっくりと砒鉱を燃焼させ、回収率の低下を防いでいたと考えられる。また、煙突による吸引効果により、設備(焙焼炉や収砒室)の中は外気より低い気圧となるから、設備の壁面に隙間があっても、そこから外気を吸い込むことはあれ、亜砒酸が外部に飛散することはあり得ないことであった。

4 戦後の新窯は、連続方式(鉱石の燃焼中に焼滓を逐次落として下から取り出すとともに、鉱石を逐次上から投入して焼き続ける方式)を採用し、これにより、戦前のバッチ方式(一度装入した鉱石を数日かけて焼き上げ、焼滓を全部取り出してから、再び新たに鉱石を投入する方式)に比して着火時の煙が減少し、排ガスについても少量一定の排出を可能とした。これらの措置は、排煙の着地濃度の低下のための対策であった。

5 旧窯の煙突は木製であったし、新窯の収砒室にも木製の蓋や天井が使用されていたが、亜砒酸の製造は何らの支障なく行われていた。これは、収砒室内の気温や煙突からの排煙の温度が少なくとも摂氏二〇〇度をかなり下回る低温であったことを示している。そして、そのような低温の場合、気体化している亜砒酸は、固体となって析出する。つまり、木製の煙突、蓋、天井の支障なき使用の事実は、収砒室内において亜砒酸が固体化して析出し、煙突からの排煙中には含まれていなかったことを示すものである。

6 昭和一一年ころ試験的に造られた反射炉は、錫を回収するための装置であったが、成果が上がらず約一年間で廃止された。錫を回収するための粉鉱焙焼の過程で同時に亜砒酸が発生したため、収砒室を付設して亜砒酸の回収を図ったが、反射炉内で気体化した亜砒酸は、収砒室内で固体化して沈降堆積し、排煙中に排出されることはなかった。反射炉からの排煙については、原料の粉鉱が油分及び水分を多量に含んでいたため、これが加熱されて、排出されたにすぎないのである。

7 なお、原告らは、土呂久鉱山における戦前の亜砒酸の生産量が、合計二三五四トンであったと主張している。しかし、この数量は、土呂久鉱山単独の生産量ではなく、宮崎県全体の生産量を含んだ数値であるから、誤りである。

四 亜砒酸製造と亜砒酸の排出について

1 亜砒酸は、摂氏二〇〇度前後よりも低い温度では、気体では存在しないものである。もし、亜砒酸が気体あるいはフュームの状態のままで煙突から排出されることがあったとすると、それは、煙突口を出る時ですら摂氏二〇〇度前後の温度を保っているということであり、収砒室内においては、それよりも更に高温であることを意味する。そうであれば、亜砒酸は収砒室内で沈降することなく、その捕集は不可能となり、亜砒酸の製造は成り立たなくなる。

しかし、現実には、亜砒酸は製造されていたのであるから、煙突出口はもとより、収砒室においても、摂氏二〇〇度をはるかに下回る温度だったことは動かし難く、そうすると、そのような温度の排煙中に亜砒酸が亜砒酸ガスあるいはフュームの状態のままで存在することは、科学法則上あり得ないことである。したがって、亜砒焼き窯から、亜砒酸ガスあるいはフュームの状態で放出されたことは、なかったのである。

2 揮発焙焼法で亜砒酸を製造する場合、その収率は、粗製において七〇ないし九〇パーセント、精製において八〇パーセントであるといわれている。この収率を根拠にして、原料の砒鉱に含有されている砒素分のうち右収率から外れる分が煙突などから外部に漏出したかのように理解するのは、全くの誤りである。なぜならば、収率とは、原料に含有されている砒素分のうち炉内で気体化する砒素分の割合(揮発率)を示しているのであって、残余は最初から気体化せずに原料中に残存しているものだからである。

第二 捨石及び鉱滓の堆積について

一 捨石及び鉱滓の処理

捨石及び鉱滓の処理については、鉱山保安法によって、その堆積場所・堆積方法等を届け出て承認を得なければならず、土呂久鉱山においては、各時代を通じて、適正な場所に堆積されていた。

旧窯の時代には、捨石及び鉱滓は鉱山設備の内部に堆積されていたのであり、これを土呂久川に直接投棄することはなかった。

また、新窯時代の捨石及び鉱滓も、所定の場所に堆積し、土呂久川に転がり落ちるような堆積方法は採られていなかった。

二 捨石及び鉱滓の「野積み」について

鉱業法・鉱山保安法は、鉱山業者は所轄保安監督官庁の許認可を得た一定の堆積場所に鉱業の施行に伴う捨石及び鉱滓の堆積を行うように定めており、その所定場所に堆積することをそれ自体適法として認め、その堆積方法も野ざらし(露天積み)で何ら支障がないとしている。

覆土植裁工事は、鉱山跡地の美観維持の目的でなされるにすぎず、それがなければ、鉱業法違反の堆積に当たるとか、堆積物が鉱害の排出源に直結して考えられるというものではない。

第三 坑内水の放流について

一 坑内水と亜砒酸との関係

本件で慢性砒素中毒の原因物質とされているのは、砒素の酸化物の一つである亜砒酸である。鉱石などに含有されている硫化物たる砒素は、本件の原因物質とは考えられていない。

そうすると、坑内水の放流をもって、本件の慢性砒素中毒の原因を論じようとするからには、坑内水に亜砒酸が含まれていることを前提にしなければならないが、土呂久鉱山の坑内水に亜砒酸が含有されているとの事実もない。原告ですら、その旨の主張はせず、かえって、曖昧に「相当量の砒素分、その他の有害物質を含んでいた」と記述して、焦点を亜砒酸に絞らない態度に終始している。

つまり、坑内水放流の事実は、本件では論じるに値しない問題なのである。

二 坑内水の砒素量

宮崎県の昭和四三年から四七年にかけての調査で、大切坑坑内水から砒素が検出されたが、同坑内水が鉱床・鉱脈の長い距離を貫流する間に砒鉱中の砒素分が溶け込むことが考えられるので、この水に砒素を含むことは十分首肯できる。しかし、本件との関係で問題となるのは、亜砒酸であり、硫化物として砒鉱中に含まれる砒素は、いくら多量高濃度に存しても毒性はなく、本件とは直接関わりはない。しかして、大切坑坑内水に亜砒酸の混入を認めるべき証拠も事実も存しないのである。

第二節  環境破壊について

第一 大気汚染について

一 山谷風と循環風

1 山谷風の場合、山風と谷風は同一の大気が循環しているような単純なものではなく、絶えず四周から新たな大気の補給を受けつつ運動しているのであって、それが閉じた循環系をなすなどということはない。循環風なるものは、同じ風(空気)が循環するという趣旨では起こり得ないものである。

2 谷風は、谷の周辺だけの現象ではなく、遥か上空にまで及ぶ厚い気層内での現象であるのに対し、山風は、山肌に接する極めて薄い気層が放射冷却により斜面を這うように流下するものであり、このような構造や規模の相違からみても、谷風がそのまま反転して山風になるとか、それらの間で閉じた循環系を作るなどということはあり得ない。いわんや、汚染物質が山谷風によって閉じ込められて循環するというようなことを想定するのは、誤りである。

二 逆転層と大気汚染について

1 盆地や低平地では、夜間、無風状態の場合、とりわけ冬期に、冷気が流れ込んで底にたまり、逆転層を生じる現象があるが、土呂久地区は、盆地でも低平地でもないので、これには該当しない。

もし、冷気が土呂久川を挟む谷の両斜面に沿って流下したとしても、さらに、土呂久の谷の低部がかなりの急傾斜で北から南へ下っていることから、冷気は土呂久から南方へ流下していくのが物理法則であり、土呂久地区が盆地でない以上そこに冷気が滞留するいわれはない。

2 仮に、逆転層があったとして、逆転層の底面より下に煙が排出されたとした場合でも、煙は一定高度まで上昇してその後平衡に達するのであり、このとき煙は水平方向への拡散を妨げられることはないから、汚染物質が「閉じ込められる」というのは全く当たらない。

とくに、土呂久の新亜砒焼き窯は、土呂久川から約一〇〇メートル標高差のある高所に設けられ、しかも高さ六メートルを超す煙突があったのであるから、煙は逆転層より上に排出されて専ら上空に拡散し、地上に排煙の影響が及ぶことはなかったといえる。

三 土呂久の大気汚染現象について

1 鉱石の焙焼で生じる亜砒酸が、「煙突から排出」されるというのは、収砒室を全く備えない焙焼炉でもあれば格別、あり得ないことである。亜砒酸が煙突から排出されてしまうような物質であれば、亜砒酸製造自体が、焙焼炉と収砒室を連結した焙焼設備による方法では、業として成り立たなくなるのである。

2 原告は、「亜砒酸の粒子は一ミクロン」程度と主張するが、一ミクロン以下ないし〇・一ミクロン前後の粒子は、「ヒューム状」を呈するものであり、いわゆる〇・一ミクロン以下のヒューム状の粒子は、空気中ではガス分子と同様に挙動し、ブラウン運動を行って沈降しない。また、一ミクロンから〇・五ミクロンの粒子径物質(球形)の沈降速度は一時間当たり〇・二一ないし〇・〇六一センチメートルと計算されており、沈降は極めて緩徐である。

以上からすると、原告主張のごとき亜砒酸粒子では、沈降自体があり得ず、仮に沈降するとしても、数百時間も排出の後であるから、風に運ばれその場所ははるか太平洋上などになるはずである。

第二 土壌汚染について

一 亜砒酸粉塵の降下について

焙焼炉から亜砒酸が排出されたという事実はなく、また、土呂久の地形や気象学上の見地から、土呂久地区に焙焼炉の排煙による大気汚染が存在し得なかったことも、既述のとおりであるから、亜砒酸粉塵の降下による土壌汚染ということはあり得ないことである。

二 捨石及び鉱滓中の砒素による汚染について

捨石の中に含まれる砒素は、亜砒酸ではなく、天燃賦与のままの硫化物であるから、雨水によって容易に流出するものではなく、雨水等に溶けて土呂久川に流れ込み土壌汚染の原因となるようなものではない。また、鉱滓は、亜砒焼きの廃滓であるため、その鉱石中の一部は酸化せずに硫化物のまま残存し、あるいは、一部が銅、鉄などと化合したものであって、その溶解度は非常に低い。したがって、鉱滓もまた、土壌汚染の原因とはなり得ない。

三 亜硫酸ガスによる汚染について

土呂久の焙焼炉からの亜硫酸ガスの排出量については、環境中では零(検出せず)との判定がある。そもそも、大気中の亜硫酸ガスは、原告らのいうように、簡単に空気中の水分と結びついたり酸化されたりはしない。

四 操業中止・閉山後の汚染について

1 原告らのいう「砒素・銅・鉛・カドミウム等の有害重金属」が具体的に何を指すのか不明であるが、そもそも土呂久地帯は鉱山鉱床地帯であるから、戦前は錫鉱石を、戦後は主に銅・鉛・亜鉛鉱石を産出し、その採掘により生じた捨石中には、これら重金属が含まれていることもある。これらは、金属単体で存在するものでなく、硫化物として存在し水に不溶性である。したがって、これらが土壌汚染の原因ということは当たらない。

2 新窯は、昭和三七年の閉山後昭和四六年に被告がこれを取り壊すまで存在したが、環境汚染の原因となったわけではない。取り壊しの際、収砒室内壁付着物をはつり滓として回収したが、仮に収砒室の内部に亜砒酸があったとしても、雨水の浸入がなく外部に流出することもなかったのである。

第三 川水・生産用水の汚濁について

大切坑坑内水は、水質がよく清冽であったため、鉱山より下流域における灌漑用水として、下流沿岸住民から有用視されているものである。そこに含まれている砒素は、天燃賦存の硫化物であり、亜砒酸とは異質であるから、これを飲用したとしても砒素中毒が発生するものではない。

ズリ堆積場のズリ(捨石)が、容易に雨水で溶出することがないことは、前述のとおりである。

第三節  環境破壊がもたらした生活破壊について

第一 牛馬の被害について

大正時代から昭和の戦前までの間、土呂久地区は牛馬の良好な産地として栄えていたのであり、牛馬が多数斃死したという事実もなければ、砒素中毒死したという事実もない。また、亜砒酸によって反芻動物の胃内微生物が影響を受けるという事実はないから、土呂久地区で亜砒酸に汚染された牧草を食べた多数の牛馬が斃死したという事実もなかったものである。

第二 農業等の被害について

大正二年から昭和一八年までの和合会議事録によれば、土呂久地区においては、農産分野では、農産物品評関係の決議が相次ぎ、増産の実が挙がったとの記事が存し、林産分野でも、造林努力が度々記されているが被害の記事はなく、さらに、椎茸栽培も、盗犯防止対策が決議されているところから見て、盗難に遇うほどの産出があったと認められるのであり、以上からすると、農林業が隆盛の途にあったことが窺われるのである。

第二章  因果関係に関する反論

第一節  砒素曝露と中毒症との因果関係(症状総論)

第一 急性・亜急性中毒と慢性中毒の症状差

1 砒素中毒の症状も、他のあらゆる中毒と同様に、急性・亜急性中毒と慢性中毒とで大きく異なる。急性・亜急性中毒は、砒素の一時的な大量摂取により障害(中毒症状)が急激に出現した状態であり、一般には重篤で時には死に至る。幸い命をとりとめれば迅速に回復するが、後遺症が残る場合もある。これに対し、慢性砒素中毒は、一定の閾値(発症可能量)を超えはするが少量の砒素が、長期継続し又は繰り返して摂取されることにより発症に至るものである。

2 このように、慢性中毒は、生体内に摂取された毒物の時間的・量的関係において急性・亜急性中毒とは明確に区別され、その結果として出現する障害(中毒症状)も同一ではない。急性中毒においては、右のように急激な発症であるだけに、慢性中毒においては全く出現しない症状(例えば、全身のショック症状や、脳血液関門の破壊によって脳内侵襲から起こる精神症状等の脳中枢症状)が起こり得るのである。したがって、急性・亜急性中毒の症状として認められているものを、本件のごとき慢性中毒に引用することは誤りであり、これは、中毒学上の経験則の一つである。

第二 砒素の体内分布と標的臓器

1 無機砒素が体内に入ると、血流に乗って腎、肝、肺、骨等に主に分布するが、実際に障害(症状)を起こす臓器・組織(標的臓器といわれるもの)はそれと異なり、(右の腎、肺、骨等の臓器・組織には障害は現れず)、皮膚、粘膜、末梢神経が主要なものであって、いずれにせよ、標的となる臓器・組織は限局されている。そのように標的臓器・組織が限局されるのは、臓器・組織ごとに各種SH基系酵素のうち、特に砒素と親和性をもつものの含有の多寡の差が存することによるものと考えられている。

2 慢性無機砒素中毒において(曝露中に)一般的に起こり得る症状としては、粘膜症状(局部刺激症状)と皮膚及び末梢神経の症状が主である。(他に曝露中起こり得るのは、心筋障害、肝の腫大・機能異常、自律神経障害、貧血である。)このように、慢性無機砒素中毒の症状も、他の諸々の中毒症と同様、二、三の主要な症状とそれに随伴し得る若干の限局的な症状との組み合わせを特徴とする疾患にすぎない。

3 したがって、原告らの主張のように、慢性無機砒素中毒が全身のほとんどの臓器・組織に障害を現す可能性があり、その結果全身に広汎多彩な症状が慢性無機砒素中毒の症状として現れるとして、広汎多彩な症状のほとんどすべてを慢性無機砒素中毒であるかのようにいいなすのは、誤りである。

第三 砒素の代謝・排泄と長年月経過後の中毒症状

1 砒素は、人体内に摂取されても極めて排泄の早い物質であることが現在の定説である。砒素の排泄に関しては、三相説がとられており、特に第一、二相からの排泄はすこぶる迅速である。体内分布の多い臓器・組織のうちでも、骨格(排泄の第三相)には、比較的長期間残留があり得るが、骨には何らの障害・症状を現さないことは、前述したとおりである。

また、三価の無機砒素(亜砒酸)が体内に入ると、肝に運ばれて直ちに無毒化機序(メチル化)が働くことも知られている。(それに対し、体内で五価の無機砒素が一時的に三価に転換される生体反応も存するが、これは五価砒素をメチル化し無毒化する機序の途中経過であって、そのまま三価砒素として残って有害な影響を与えるものではない。)

したがって、こうした砒素の体内動態からしても、砒素曝露がなくなれば、障害がたとえ既発症状となっていても、迅速に回復に向かうのであり、いわんや曝露中に発症していない障害が、曝露終了後長く経って発症するようなことは、この点からしても起こり得ない。

2 慢性無機砒素中毒の症状は、曝露中に発症していたとしても、曝露を離れれば迅速に回復するのが通常である。したがって、その後になっても長年月その症状が回復せず持続するためには、曝露中現れた症状によって、臓器・組織に「容易に治り難いキズ」(いわゆる後遺症として器質障害)が生じている場合でなければならない。

もし、慢性無機砒素中毒患者にそうした曝露中の器質的障害に基づく後遺症が存在したならば、検査等で他覚的に把握し得る客観的所見が存在するはずであって、その症状が昔の砒素曝露による症状の持続であり得るとするためには、キズの存在を検出確認し、その証拠が示されなければならない。

第四 毒物中毒における量反応関係の成立

1 毒物の場合は、摂取された量に対応した生体反応(障害発現等)を生じるというのが、医学・中毒学の経験法則であり、その当然の帰結として、毒物について反応の固体差は(細菌感染等に比し)微少なものと考えられている。砒素もまた毒物の一種であるから、慢性無機砒素中毒にもこの量反応関係の法則が適用されることは、疑いのないところである。

しかして、本件で考えれば、土呂久地区において亜砒焼きが完了した昭和三七年以降(もっと早い時期に土呂久を離れた者はその時期から)、砒素の曝露・摂取も終了し、少なくともその時期以降体内摂取量も逓減しこそすれ増加することはないのであるから、曝露中に発症していない症状がその後に長く経って増悪したりすることは、医学上あり得ないことである。

2 本件で、原告側証人の中には、曝露中に発症に至らなくても、何らかのサブクリニカル(不顕性)の障害が臓器・組織に存し、それが年月の経過とともに顕在化し発症するという機序を、仮説的にではあるが述べる者がある。しかしながら、たとえ曝露中に顕在化し発症した中毒症状であってすらも、曝露を離れれば生体に備わる自然治癒力(ホメオシタシス)によって回復に向かうのが医学常識であること、及び、毒物中毒における量反応関係からしても、曝露中に発症量に達しないものが、次第に体内量の逓減していく下で、かえって発症するなどとは中毒学の法則に反すること等からして、右のような機序は到底起こり得るものではないのである。

第五 本件における疫学調査報告の意義

1 本件土呂久地区住民の健康状態の問題のように、ある集団の特性を調査検討する手法としては、疫学(医事統計学)が広く用いられており、本件でも、いくつかの報告類が提出されている。疫学は、調査対象を集団(対象集団)としてとらえ、それと比較対照となるべき集団(対照集団)とを同時に調査し、その結果として得られた両集団の数値を統計学的手法によって比較し、両者間に有意の差があれば、初めて対象集団に問題がある(本件でいえば、健康状態又はある症状に差がある)と認めることになる。

2 しかして、本件で原告らの提出した報告類には、右のごとき疫学手法に沿っていないものが多く、そのようなものでは、土呂久地区住民に有意な健康の偏りが存する証拠とはなり得ない。また、有意差検定等の疫学手法に則った報告によると、土呂久地区住民には、自覚的訴えは有意に多いものがあっても、その裏付けとなる他覚的所見に有意差は見るべきものがなく、健康状態の偏りを証するには至っていない。

3 そのように、土呂久地区住民全体として特段の健康の偏りが証されないのにもかかわらず、原告らにのみ砒素中毒による全身にわたる広汎多彩な症状が現れるなどということ自体、疫学法則に反している。

第二節  慢性無機砒素中毒によって起こり得る症状、起こり得ぬ症状(症状各論)

第一 慢性無機砒素中毒によって起こり得る症状

一 皮膚症状

1 砒素性皮膚症

砒素性皮膚症は、砒素中毒における最も基本的・一般的症状であるが、慢性砒素中毒の他の症状と同様、それ自体をとり出してみれば、非特異的な症状であって、加齢現象としての老人性皮膚症と酷似するから、皮膚生検等による厳密な鑑別が必要である。特に、本件原告らは、老人性皮膚症を生じ得る程度の高齢者であるにもかかわらず、右の点につき十分な鑑別がなされたか甚だ疑問であり、その砒素性皮膚症の存在は疑わしい。

さらに、砒素性皮膚症も、曝露中あるいは曝露終了後間もなく発現し、曝露から離れれば時間の経過とともに消退するから、永く砒素性皮膚症が存続するとは考え難い。

2 ボーエン病

ボーエン病は、特徴的な表皮内増殖を示すが、それがボーエン病である限り、長年経過しても表皮組織内にとどまり、他の臓器組織にまで転移・浸潤することはない。したがって、ボーエン病は、癌とは異なり致死性はない。

一般にボーエン病の原因としては、日光、紫外線、遺伝、ウィルス等多くの原因が上げられている。土呂久地区は九州南部に位置し日光の影響が強いこと、多くの認定患者が血族関係で結ばれており遺伝性の病変が考えられること等、本件において考慮すべき原因が考えられるが、本件で右の点の十分な鑑別がなされた保証はなく、土呂久地区におけるボーエン病を直ちに砒素と結びつけることはできない。

ボーエン病が皮膚癌に移行するという報文も存するが、土呂久地区住民には現在に至るまで皮膚癌の例がほとんど見当たらず、この問題の適用の余地がない。

二 粘膜症状

無機砒素の慢性曝露下で起こり得る粘膜症状としては、呼吸器、消化器(胃腸)、眼、鼻、口の刺激性炎症症状が考えられるが、粘膜全般について共通する性質として、粘膜は外界と直接接触する部位であるため、脱落、再生を迅速に繰り返す機能を他の組織以上に備えている。そのため、障害からの回復が特に速い組織であることがよく知られている。こうした性質からすれば、粘膜症状は曝露にさらされている間のみ生じ、曝露から離れれば迅速に回復に向かうものと解するのが医学常識である。

1 呼吸器症状(慢性気管支炎)

(一) 砒素の経気道曝露により、粘膜に対する直接刺激作用としてカタル(炎症)性変化が生じ、気管支炎が発症し得る。しかし、こうした炎症は、砒素曝露から離れれば数日以内に回復する。

砒素曝露が長期間継続すると、気管支炎も継続し、慢性化する場合があるが、曝露終了後は、回復するとされている。

砒素曝露によって発症した呼吸器症状が曝露終了後も長期間にわたって持続するのは、気道粘膜に器質的病変(後遺症)がある場合に限られる。その場合は、レントゲン撮影、内視鏡検査、組織生検等による器質的病変の確認が必要であって、それがなければ、砒素起因の呼吸器症状とは認められない。

(二) 肺結核や塵肺等の他の疾患でも、慢性気管支炎症状を呈するのが一般であるから、それらとの鑑別も必要である。特に結核の既往・陳旧性結核の所見があれば、その感染・発症の時期と症状の関係を確認すべきであるし、また、本来鉱山労働者では、呼吸器症状が多発することは普遍的な事実であるから、本件原告らが土呂久鉱山に勤めるようになってから咳痰を訴えるようになった場合には、粉塵等の影響との鑑別が必要である。

さらに、結核、塵肺のほか、一般に「喫煙」は、気道の刺激物質として、中年以後の閉塞性呼吸器疾患を引き起こす重要な原因となっている。呼吸器症状の存在を主張する原告らにつき、喫煙状況の調査もなしに直ちに砒素による呼吸器症状ありとするのは、論理の飛躍も甚だしい。

2 眼、鼻、口の粘膜障害

(一) 眼粘膜

砒素曝露による刺激症状としての結膜炎・角膜炎等の眼粘膜障害は、他の粘膜症状と同様、一過性であって、砒素曝露から離れれば、器質的病変がない限り回復する。

眼粘膜障害の報告事例は、直接接触によるとみられる職業性曝露に限られ、環境大気中の砒素曝露によって起こることを示すものはほとんど存在しない。

なお、白内障は、粘膜症状ではなく、眼球内の水晶体が白濁する病気であるが、これは、典型的な老人病として老化現象とされており、白内障を砒素起因と認めた報文は存しない。

(二) 鼻粘膜

鼻粘膜は砒素曝露の直接刺激作用により、炎症性変化(発赤・浮腫等)が生じ、鼻炎を起こすが、砒素曝露が終了すれば、鼻炎は速やかに消失する。鼻粘膜に肥厚、萎縮、瘢痕、穿孔等の器質的病変が残れば、砒素曝露終了後も鼻炎は継続し得るが、鼻粘膜の慢性的炎症の主原因は、加齢、細菌感染、タバコ、アレルギー等のごく一般に見られる原因であるから、慢性鼻炎の原因を直ちに砒素起因と判断することはできない。なお、鼻粘膜瘢痕、鼻中隔穿孔は、職業性高濃度曝露による場合にのみ報告例があり、一般環境曝露においては見られない。

嗅覚障害(低下又は脱失)は、鼻粘膜(嗅細胞)の急性・慢性の炎症によって生じ得るが、通常は一過性であり、こうした鼻粘膜症状がない者に嗅覚障害が生じることがないのは、砒素によっても同様である。

慢性副鼻腔炎は、一般に感染症が大半である。砒素曝露中に鼻粘膜に対する刺激作用によって炎症性鼻炎を起こし、そこに感染が起こると、鼻炎の二次的障害として併発し得るが、慢性副鼻腔炎が砒素曝露によって直接発症するとは考え難く、その報告例もない。したがって、これを砒素起因とすることはできない。

(三) 口腔粘膜、歯の障害

口腔粘膜も粘膜の一部であるから、砒素が経口摂取されると口腔粘膜の炎症、刺激症状を起こすことがある。しかし、この場合も、他の粘膜症状と同様、一過性であって、砒素曝露から離れると消失する。ドイツのブドウ園の事例を除けば、職業性(濃厚)曝露例においてすらも発症例の報告はなく、いわんや環境曝露での報文はない。右ドイツの例も中毒患者の有した症状の一つとして掲げられただけで、その原因を砒素としたものではない。

歯牙は、骨格系の一部であって、口腔粘膜とは全く別種の組織である。そもそも砒素曝露により骨格系が障害されることはない。口腔粘膜の炎症→歯根の障害→歯牙の脱落という経路の想像は、あまりに飛躍がありすぎる。

(四) 消化管粘膜症状(胃腸障害)

砒素経口曝露下では、消化管粘膜に対する直接刺激作用によって、粘膜に炎症性変化が生じ、その結果胃炎を起こし、ひどくなれば腸炎も起こし得る。経気道曝露での事例はほとんどない。

しかし、消化管粘膜の上皮細胞は常に移動、剥脱、新生を繰り返しており、胃腸粘膜の寿命は三日といわれていて、その回復は迅速である。したがって、砒素曝露終了後に砒素起因性の胃腸障害が持続するというためには、他の粘膜の場合以上に消化管粘膜に器質的病変としての後遺症が残っている必要があるから、内視鏡等でその存在が確認されることが前提となる。

長期慢性的に下痢・便秘・腹痛等の消化管障害が続く疾患として、過敏性腸症候群が臨床上極めて普通に見られるところである。原告らについては、そうしたものとの鑑別すら全くなされた形跡もなしに、砒素に直結する短絡的診断がなされている。

三 多発性神経炎(末梢神経障害)

1 多発性神経炎は、神経の末梢部位が障害される疾患であるため、躯幹からの遠位部(足先、手先)から障害(感覚低下、腱反射低下、異常知覚など)が始まり、次第に上行する。その結果、分節性の(すなわち、障害される範囲が特定の神経の支配領域に局限された形で現れる)単発性神経炎と異なり、境界不鮮明な左右対称の四肢末梢型(グローブストッキング型)症状を呈するのが特徴である。

多発性神経炎も多原因であるが、一般に最も多いのは、糖尿病、アルコール中毒等である。多発性神経炎の症状である知覚障害や筋力低下は、加齢現象としても通常現れるものであるから、患者が老齢者の場合には、十分な鑑別が必要である。また、多発性神経炎に酷似した症状(四肢末梢の感覚低下、腱反射低下等)は、加齢とともに増加する脊椎骨の変性諸疾患(変形性脊椎症、頚椎症、腰椎症等)や、後縦靱帯骨化症等によってもしばしば生じるので、これとの鑑別も必要である。

多発性神経炎の診断には、グローブストッキング型の知覚低下の存在と腱反射低下の確認、振動覚(深部知覚の一種)の低下の確認等も行われるが、客観的検査として末梢神経伝導速度の低下及び針筋電図による異常波形の確認が必要である。神経生検を行えば、一層確実である。

2 砒素起因の多発性神経炎は、末梢神経の炎症症状であるから、砒素曝露中か、あるいは、曝露終了後短期間内(数週間ないしは数か月内)に発症し、曝露から離れて数か月以上経過した後に発症することはない。重症例でない場合には、曝露から離れれば、回復に向かう。したがって、本件のごとく砒素曝露終了後に長年経過して、なお残存するとするためには、末梢神経に器質的病変の存在を確認する必要がある。

3 多発性神経炎の一環として、視神経障害(求心性視野狭窄など)が起こることがあるが、砒素性のものは視神経の末梢性障害であって、中等度以上の多発性神経炎が認められない者に砒素起因性は考えられない。有機水銀(水俣病)が原因で起こる大脳の視中枢障害の場合とは発症機序が全く別であるから、それをもって類推するのは完全な誤りとなる。

四 その他の症状

慢性無機砒素中毒によって砒素曝露下で発症し得るその他の症状として、以下のものがある。

1 心筋障害

無機砒素の心臓に対する影響として報文のあるものは、心筋障害と冠動脈硬化症があるが、冠動脈硬化症は、後述するように、砒素単独で起こる症状ではない。砒素による心筋障害は、砒素曝露下でのみ発現し、曝露が終了すれば速やかに回復しており、曝露から離れて長期間経過後に発現ないし持続した例はない。

2 肝腫大、肝機能異常

無機砒素の肝臓に対する影響としては、経口曝露下における肝腫大、肝機能異常の報文が見られるが、これらは砒素曝露から離れれば回復し、曝露終了後に発症ないし持続したとの報告例はない。経気道曝露においては、高濃度の職業性曝露の事例も含め、肝機能障害の症例報告はない。

肝炎は、急性・亜急性中毒の報告例はあるが、慢性中毒の報告例はない。また肝硬変のような肝実質に対する障害は、後述するように、砒素単独では起こらない。

3 自律神経障害

慢性無機砒素中毒の曝露下で発症し得る自律神経障害は、多発性神経炎の一環として起こる場合であって、多発性神経炎がないのに自律神経障害だけが起こることはない。自律神経障害は、発汗過多、流涎、鼻炎、流涙等の形で砒素曝露中に一過性に生じ、曝露終了後は回復する。曝露から離れて長期間経過後発症ないし持続することはない。

4 造血器障害(貧血)

一般に、各種ある貧血の中で最も例が多いのは、鉄欠乏性貧血(赤血球減少)であるが、慢性無機砒素中毒で曝露下に起こり得る貧血はそれと全く異なり、赤血球、白血球、血小板が全体として減少する再生不良性貧血の型をとるものである。砒素起因の貧血が現れるとすれば、砒素曝露中に発症し、曝露から離れれば速やかに回復するのであって、その後に遷延持続したり、遅れて発生することはない。

第二 特殊な共存因子(交絡因子)の存在なしには起こらない症状

一 末梢循環障害(壊疽、動脈硬化等の血管病変)

慢性無機砒素中毒によって、動脈硬化が生じ、壊疽を初めとする四肢の末梢循環障害、冠動脈硬化症、脳動脈硬化症が発症するとの見解があり、その根拠としては、台湾の烏脚病事件、ドイツのブドウ園事件、チリのアントファガスタ事件が引用されている。しかし、これら三事件は、いずれもその事件特有の砒素との共存因子(交絡因子)の存在が明らかにされている。すなわち、台湾では麦角アルカロイド(エルゴタミン)機の有機蛍光物質、ドイツでは多量のアルコール飲用とニコチン農薬、チリでは乳幼児の飢餓的な栄養不良が、それぞれ交絡因子として存在したことが報告されている。それに対し、無機砒素を単独で医薬品(ホーレル水、アジア丸等)として用いた治療による砒素の濃厚曝露を受けた事例や職業性の高濃度曝露を受けた事例のように、無機砒素単独の中毒事件において、末梢性血管障害の報告はない。このように、砒素単独で末梢循環障害は起こらないのである。

また、慢性無機砒素中毒によって、高血圧が起こるとの報告もない。一般に、高血圧は、原因疾患が明らかでない成人病として本態性高血圧と、原因疾患の明らかな二次性高血圧とがあるが、前者が高血圧の七〇~八〇パーセントを占める。二次性高血圧では、腎性高血圧が最も多いが、無機砒素中毒によって腎障害が起こらないことは、後述のとおりである。

二 肝硬変

慢性無機砒素中毒によって肝硬変が起こるとの見解があり、その根拠として、ドイツのブドウ園事件、チリのアントファガスタ事件が引用されている。しかし、これらの両事件は、いずれもその特殊な共存因子(交絡因子)が存することは前述のとおりである。砒素単独の中毒事例では、(第一の四2に掲げた一過性の機能低下は除き)、肝硬変のごとき肝実質の器質的障害の報告例はない。

第三 慢性無機砒素中毒によっては発症の考えられない症状

一 脳中枢障害

慢性無機砒素中毒によって脳中枢が障害されることはない。砒素が直接脳中枢を侵すことによる障害の事例としては、アトキシル、サルバルサン等の有機砒素製薬剤を医薬品として用いた場合と、無機砒素の急性大量曝露における症例報告等があるだけである。後者は、大量曝露によって成人に存する脳血液関門が破壊された結果であって、少量長期曝露によるところの慢性中毒例では起こり得ない。森永砒素ミルク事件において脳障害の症状が報告されているのは、これが脳血液関門の未完成な乳児の例であるからであり、脳血液関門が完成した乳児以外の者には該らない。また、前者の有機砒素の例を、全く化学構造の異なるため別物質といえる無機砒素の例に引用することもできない。

二 聴力障害(難聴)

無機砒素では、聴力障害は起こらない。昔はアトキシル、サルバルサン等の有機砒素製薬剤が広く用いられ、その中毒例の頻発したことが砒素中毒例の代表のようにみなされ、砒素は「聴器毒」の一つと指摘されてはいるが、そのことと無機砒素中毒とを混同してはならない。

無機砒素中毒による聴力障害の症例報告は、ベンコーの報告が唯一あるだけであるが、同報告は欠陥の多いもので措信し難い。要するに、慢性無機砒素中毒で難聴は生じないのが国際的知見である。

三 腎、尿路障害

慢性無機砒素中毒でここに障害が起こることはない。症例報告としてあるのは、高濃度曝露を受けた急性中毒の場合のショック症状(腎不全)があるだけである。

第四 砒素と発癌性

第一ないし第三において無機砒素の一般毒性について述べたが、発癌性はこれとは全く趣を異にする。発癌機序は、一般に、発癌物質に曝露しても現実の癌発生に至るまでに相当の年月を要するため、その因果関係が不明確とならざるを得ず、発癌性の確認には、夥しい疫学的調査・観察や実験の累積を要する。

砒素の発癌性については、一時代前までは、有力な発癌物質であるもののように考えられていた時期があるが、その後世界中での調査・実験が進むにつれて、その発癌性に強く疑問が呈せられ、最近の知見では、砒素が発癌に関わるとしても、たかだか助癌物質と解するのが有力見解となっている。そうした状況の下で、無機砒素により癌が起こり得るとする報告も、その部位と条件は極めて限局されている。現在の国際的知見で砒素の発癌性が疫学的証明の限度にせよ、承認されているのは、

(1) 皮膚癌-ただし経口系曝露の場合

(2) 肺癌-ただし職業性(すなわち高濃度の経気道系)曝露の場合

に限られている。

なお、右の肺癌にしても、最新の実験による実証的知見として、その発癌性があり得るのは、砒素化合物が不溶性物質の場合に限られるのであって、それに対し、本件土呂久地区で砒素源として挙げられている亜砒酸は、可溶性である。また、肺癌については、砒素が唯一の(特異的な)原因とされている物質では全くないことを看過してはならない。肺癌の原因として、現在、最大のものとされているのは、喫煙である。その他、建設資材や自動車部品等に身近に使われている石綿の粉じんも指摘されている。

また、原告らについて、その他の諸臓器の癌の主張もあるが、右のとおり前記(1)(2)以外の癌に砒素との関連は認められていない。

第三章  責任に関する反論

第一  稼業なき鉱業権者の責任

被告は、本件鉱山において鉱業を実施していないのであるから、以下に述べるとおり、鉱業法一〇九条による賠償責任を負わない。

一 不法行為責任における「自己責任」の原則

鉱業法一〇九条は、伝統的な不法行為責任における過失責任の原則を修正し、無過失責任を定めているが、この責任も不法行為責任である以上、原因行為の存在を当然の前提としているのであって、不法行為責任における「自己責任」の原則まで放棄して、稼業なき鉱業権者に対し、同人と全く無関係な他人の行為の責任のみを一方的に負担すべしとしたものではない。

二 鉱業法一〇九条の立法趣旨

1 鉱業法が、鉱業権の移転が行われた場合や数人の鉱業権者が隣接して鉱区を有する場合等に、鉱害賠償義務者を形式的に定めたのは、そのような場合発生した鉱害が何人の稼業により生じたかを確定することが困難であるという理由による。この立法趣旨からすれば、鉱業法一〇九条は、鉱業を実施稼業した鉱業権者相互間において賠償義務を負うべき者を定めたものであることが明らかであり、稼業なき鉱業権者はそもそも原因行為者の確定困難という問題の埓外の存在である。

2 鉱業法一〇九条一項が四種類の原因行為を定め、同条二項が「前項の場合において、損害が二以上の鉱区……の鉱業権者……の作業によって生じたときは」と定めていることは、鉱業権者による積極的作為による原因行為の存在が賠償責任の当然の前提とされているものと解さざるを得ない。

3 鉱業法一〇九条三項も、同条一項、二項と比べて、文言及び規定の趣旨において何ら差異はなく、鉱業を実施稼業した鉱業権者に賠償責任を負わせていることは、明らかである。損害発生後に鉱業権を譲り受けた者が引き続き稼業をしているときは、損害の進行、増発にも当然影響を与えたと考えられ、この者に損害発生時の鉱業権者と連帯して賠償義務を負担せしめても酷ではなく、それが被害者を保護する所以であると、鉱業法が考えたものと解される。

三 「鉱業権に付着する鉱害に関する匿れた責任」について

鉱業権は、未採掘鉱物を掘採取得する権利、鉱区内の分離鉱物を合法的に取得できる地位であるにすぎず、それ自体に鉱害の危険性を内包しているわけではない。鉱害発生の危険は、鉱業権の現実の行使があって初めて生じるものであって、「鉱害に関する匿れた責任」なるものを考えるとしても、それは、「鉱業権自体」に付着しているのではなく、鉱業権の行使に伴って初めて生じるものであり、鉱業の実施を前提としていずれの作業に起因するか不明の場合に関するものなのである。

四 旧鉱業法改正法の立法者の意思

旧鉱業法改正の際、帝国議会での質疑において、鉱業権の承継があって最後の鉱業権者がただ鉱業権を取得したに止まり何も稼業していない場合に、その最後の鉱業権者はなお賠償責任を負うのかという質問に対し、何らの作業をしないことがはっきりすればその鉱業権者には責任がないとの応答がなされており、稼業なき鉱業権者はいかなる場合にも賠償責任を負わないというのが、立法者の考え方であった。

そして、旧鉱業法をそのまま承継した現行鉱業法一〇九条の規定についても、全く同様に解されるのであり、例えば、盗掘により鉱害が生じた場合当該鉱区の鉱業権者が賠償責任を負わない(昭和三二年鉱山局通達五一六号)のは、原因作業に無関係である無施業の鉱業権者を問責することができないからにほかならない。

五 鉱業権者の事業着手義務との関係鉱業法は、確かに鉱業権者に事業着手義務を定めているが、同時に、適法に稼業のないまま推移する鉱業権者の存在も許容しているのであり、適法に鉱業を実施しないことをもって損害賠償責任を免れるためのものであるかのように考えるのは、的外れも甚だしいというべきである。

六 鉱害の原因となる不作為について

稼業なき鉱業権者が賠償責任を負うかという問題と、不作為による原因行為につきいかなる場合に賠償責任を負うかという問題とは、法的に別異の問題であって、これを混同して、不作為が事実上鉱害の原因となり得るからといって、稼業なき鉱業権者も原因行為者として問責されると考えるのは、誤りである。

鉱業権者が稼業することなく、単に坑水を流れるままに放置したとか、捨石・鉱滓を堆積したまま放置したとかの行為(不作為)が仮にあったとしても、それらの放置行為が鉱業の実施稼業であるとされるいわれはない。その場合の損害賠償問題は、鉱業法一〇九条と関係なく、民法不法行為法によって処理すべきものである。

七 財産権としての保障

鉱業権は、憲法二九条三項によって保障された財産権として明定されており(鉱業法五三条、五三条の二)、鉱業権を取得した者に対し、自己の責任に属さない他人の行為の結果責任のみを一方的に負担せしめる解釈を採ることは、憲法違反たるを免れない。鉱業法は、そうした違憲立法ではないのであるから、その解釈は憲法秩序に適合するようになされなければならない。

第二  旧鉱業法改正法施行前に発生した損害についての鉱業権譲受人の責任

被害が鉱業法一〇九条三項に基づき鉱業権譲受人として負う賠償責任は、以下に述べる立法経過からすると、旧鉱業法改正法(以下「改正法」ともいう。)の施行日である昭和一五年一月一日前に生じた損害には及ばない。

一 旧鉱業法改正法による鉱業権譲受人の責任

1 改正法は、初めて鉱害賠償に関する無過失賠償責任を法制化した画期的な立法であるが、賠償規定は、従前の慣行を追認する形で成文法化した鉱業権者の無過失賠償責任の規定(七四条ノ二第一項、第二項)と、従前の慣行には存在していなかったが、鉱害賠償の実効を確保し被害者の保護を図るという見地から新たに創設された損害発生後の鉱業権譲受人の既発損害に関する連帯賠償責任の規定(七四条ノ二第三項)との、二種類のものから成り立っている。

2 改正法が創設した後者の責任(鉱業権譲受人の既発損害に関する連帯責任)は、当然のことながら法律不遡及の原則に従って、その創設前の改正法施行前に生じた損害には及ばないものとされ、そのことは、改正法の適用関係を定めた同法附則にも明示されている。

(一) すなわち、改正法附則二項には、同法施行前に行われた作業によって施行後に生じた損害にも同法の適用があることが定められているが、この規定の背後には、前記法律不遡及の原則が存する。したがって、改正法が創設した鉱業権譲受人の連帯賠償責任は、附則二項によっても適用範囲が限定され、同法施行前に生じた損害には適用されないことが明らかにされているのである。

(二) 次いで、附則三項には、改正法施行前に生じた損害について「賠償ヲ受ケズ又ハ賠償ヲ受ケタルモ其ノ額ガ著シク少額ナリシモノニ付イテハ」、被害者は賠償(又は増額)を請求できると定めて、従前から鉱害賠償慣行として存在していた(損害発生時の)鉱業権者に対する被害者の損害賠償請求権を制定法上の権利として追認し、具体的には、賠償未済の鉱業権者に対する損害賠償請求権に法的保護を与えている。

(三) 最後に、附則四項は、前項により改正法施行前から被害者が慣行として有していた損害賠償請求権に法的保護が与えられたのを承けて、「前項ノ場合ニ之ヲ適用ス」る法条の一つに法七四条ノ二第一項及び第二項を掲げ、右請求権の内容、すなわち、改正法施行前に生じた損害について被害者が賠償を請求することのできる先を右法条所定の「損害発生ノ時ニ於ケル当該鉱区ノ鉱業権者(鉱業権消滅セル場合ニ於テハ鉱業権消滅ノ時ニ於ケル当該鉱区ノ鉱業権者)」及び「損害ガ二以上ノ鉱区ノ鉱業権者ノ作業ニ因リテ生ジタルトキハ各鉱業権者」と定めている。

(四) 附則四項は、改正法施行前に生じた損害の請求先として同法七四条ノ二第一項と第二項のみを掲げ、同条三項は掲げないという立法のしかたをもって、改正法施行前に生じた損害の賠償請求先は前記(三)記載の各鉱業権者に限定されており、右損害発生後に当該鉱業権を譲り受けた鉱業権者にそれを請求することは認めないことを明定している。これは、附則二項の結果として当然のことではあるが、この点にもこの規定の意義がある。

(五) ところで、附則四項が法七四条ノ二を「適用ス」るとしたのは、前記(三)に述べたとおり、附則三項の場合、すなわち、改正法施行前に生じた損害について賠償未済の場合に、その請求ないし追徴先は当該損害発生時の鉱業権者、鉱業権消滅の場合は消滅時の鉱業権者等であると一々列挙するのに代えて、便宜上、法七四条ノ二第一項及び第二項を「適用ス」と規定したにすぎず、改正法施行前に生じた損害に法七四条ノ二の遡及適用を定めたものではない。右の遡及適用がないことは、前記(一)に述べたとおり、すでに附則二項の明定するところなのである。

二 現行鉱業法による鉱業権譲受人の責任

1 現行鉱業法は、旧鉱業法が既に採用していた先進的な無過失賠償責任をそのまま踏襲し、旧鉱業法にはなかった租鉱権制度の新設に伴い租鉱区における鉱害賠償については鉱業権者と租鉱権者が連帯責任を負う趣旨の規定を加えただけで、旧法と新法とで鉱害賠償の根本原則には何らの変更がなかった。したがって、旧鉱業法改正法が創設した鉱業権譲受人の連帯賠償責任には何らの改廃もなく新法にそのまま引き継がれたものである。

2 右の理は、鉱業法施行法三五条四項及び同項が引用している同条二項の各規定を正しく読めば自ずから明らかである。まず、鉱業法施行法三五条二項は、旧法七四条ノ二によって既に発生した旧法による鉱業権者の賠償責任は、新法の制定・旧法の廃止によって消滅してしまうのではなく、従前どおり存続することを明らかにしており、次に、同条四項は、それを承けて、同条二項により旧法の下で既に発生した賠償責任を有する鉱業権を譲り受けた鉱業権者には新法一〇九条三項を適用する、すなわち、当該鉱業権の譲受人は、右既発賠償責任について同条二項により従前どおり責任を負う旧法による鉱業権者と連帯して賠償の責に任ずべきことを定めたのである。

ここで、鉱業権譲受人が連帯賠償責任に任ずべき既発賠償責任とは、鉱業法施行法三五条二項によって「旧鉱業法七四条ノ二……によって生じた」賠償責任であり、右責任は、既に述べたように、旧鉱業法改正法施行後に生じた損害についての責任であって、同法施行前に生じた損害には及ばないのであるから、右鉱業権譲受人が負担する連帯賠償責任も同法施行後に生じた損害についての責任に限定され、同法施行前に生じた損害には及ばない。

要するに、鉱業法施行法三五条四項は、旧鉱業法改正法によって創設された鉱業権譲受人の連帯責任には何の変更もないことを、注意的に定めたものに外ならないのである。

3 以上と異なり、旧鉱業法七四条ノ二の規定により賠償責任を有する旧鉱業法による鉱業権者の中には、改正法附則三項及び四項で改正法施行前に生じた損害につき責任を明言された鉱業権者が含まれると解して、結局、鉱業法施行法三五条四項は、現行鉱業法施行後の鉱業権譲受人に対しては改正法施行前に生じた損害についても鉱業法一〇九条三項の規定を適用することを明認したものであるとする解釈が存する。

しかしながら、旧鉱業法七四条ノ二の規定により賠償責任を有する旧鉱業法による鉱業権者の賠償責任は、改正法施行後に生じた損害についての責任であるのに対し、改正法附則三項及び四項で責任を明言された鉱業権者のそれは、改正法施行前に生じた損害についての責任であり、かつ、当該損害発生当時の鉱業権者のみに限定された責任であって、両者は、それぞれ別異の賠償責任であるから、右の解釈は全くの謬見である。

4 仮に右3の解釈を是とすると、新鉱業法施行後の鉱業権譲受人は、法一〇九条三項の法文に従って、改正法施行前に生じた損害の発生時の鉱業権者のみならず、その後の鉱業権者(改正法の下における中間譲受人)とも連帯して損害賠償責任を負うことになるが、かくては、旧鉱業法による鉱業権者の賠償責任は「なお従前の例による」と定めた鉱業法施行法三五条二項の規定に反する矛盾が生じる。

右の中間譲受人は、「従前の例によ」って改正法施行後に生じた損害についての責任を負うのみであり、新鉱業法施行後の鉱業権譲受人がそれ以上に改正法施行前に生じた損害の責任までも負うというのでは、権利義務が順次承継される場合、中間の譲受人が負担しない責任をその後の譲受人が負担するという結果となり、背理も甚だしい。

5 鉱業権は、憲法二九条三項によって保障された財産権として明定されており、このような財産権たる鉱業権を取得した者に対し、自己の責任に属しない他人の行為の結果責任を負わせるという負担・不利益の及ぶ範囲をさらに拡大し一方的に賦課する改正を現行鉱業法が行ったとすれば、それは明らかに違憲であるが、鉱業法施行法三五条四項はそうした違憲立法と解すべきではない。右3の解釈は、合憲的法律解釈を逸脱したものであって、排斥されるべきである。

第三  昭和一二年以前の亜砒酸製造と被告の責任

昭和一二年以前の土呂久における亜砒酸製造は、鉱業権者に非ざる者が行ったものであり、鉱業法一〇九条の対象外の行為であるから、被告は、そのような行為によって生じた損害の賠償責任を負わない。

一 非鉱業権者の行為と鉱業法一〇九条の原因行為

鉱業法一〇九条に鉱害賠償の原因行為として定められているものは、すべて鉱業権者による鉱業の稼業としてなされる行為を指すものであり、鉱業権者から鉱石を買って製錬する業者のごとき第三者(非鉱業権者)の行為を含むものではない。鉱業権者が採掘して売鉱した鉱石を、いかなる製錬業者が取得して製錬した場合でも、その製錬業者の排出物による被害までも、鉱石を売鉱した鉱業権者が、鉱業法一〇九条に基づいて責任を負うべきいわれはない。そして、この理は、買鉱した製錬業者の製錬場が、鉱山の遠隔地にあるか、近隣にあるかによって異なるのではないのである。

二 昭和一二年以前の土呂久における亜砒酸製造

「大正九年ころに始まった」と原告らが主張する土呂久における亜砒酸製造は、昭和一二年一月二八日岩戸鉱山株式会社が鉱業権を取得するまでの間、鉱業権者に非ざる土呂久地区住民によって行われたものである。すなわち、その期間の亜砒酸製造は、川田平三郎、宮城正一、野村弥三郎、佐藤喜右衛門、富高砂太郎、鶴野政一ら土呂久地区住民が、鉱業権者による鉱業の実施とは全く別異に、個々の生業として行っていたものである。

三 昭和一二年以前の非鉱業権者の行為と被告の責任

土呂久地区において行われていた右川田らによる亜砒酸製造は、鉱業権者に非ざる者による行為であるから、鉱業法一〇九条の適用を受けることはなく、したがって、鉱業権譲受人である被告が責任を負うことはないというべきである。

なお、非鉱業権者たる右川田らと鉱業権者との間に、亜砒酸製造につきいわゆる斤先掘ないし請負掘と呼ばれる契約が存したということも全くなかったのであるから、同契約を根拠に被告の責任を問うことも、失当といわなければならない。

第四  鉱業法一一六条の適用

次に掲げる原告佐藤直ら一一人の者については、仮に主張のとおりの症状障害が存し慢性砒素中毒症に罹患しているとしても、それらの損害は、その者らが土呂久鉱山での鉱業に従事した過程において砒素に曝露したことによって生じた業務上の疾病、健康障害とみるべきであるから、かかる健康被害については、鉱業法一一六条によって同法一〇九条等鉱業法上の損害賠償規定は適用されない。以下に述べるとおり、これら一一人の者は、かつて土呂久鉱山において鉱業に従事したが、主張の症状障害の発症時期と鉱業従事期間とは符合しており、いずれも業務上の疾病に罹ったとみられるのである。

〈1〉 佐藤直は、昭和一三年ころ土呂久鉱山に勤務したが、そのころ皮膚障害が出現した。

〈2〉 亡佐藤建吉は、昭和一二年三月から昭和一六年一月まで土呂久鉱山に勤務した。勤務し始めたころから、眼、皮膚、鼻、消化器の障害が出現した。

〈3〉 佐藤定夫は、昭和一三年三月から昭和一六年一〇月ころまで土呂久鉱山に勤務したが、そのころ胃腸障害、呼吸器障害などが出現した。

〈4〉 矢津田近は、昭和一四年四月から昭和一五年五月ころまで土呂久鉱山に勤務したが、土呂久鉱山での就労をやめたころから健康が悪化した。

〈5〉 豊嶋重臣は、昭和一三年四月から昭和一六年一一月まで土呂久鉱山に勤務し、そのころから、身体全体の倦怠感、胃腸障害等が出現した。

〈6〉 富高暁は、大正一一年ころから昭和一三年まで土呂久鉱山に勤務したが、そのころ皮膚、眼、鼻、胃腸、呼吸器等の障害が出現した。

〈7〉 佐藤マサ子は、昭和一一年から昭和一三年まで土呂久鉱山に勤務した。鉱業に従事し始めた昭和一一年ころから、皮膚、呼吸器、神経系の障害が出現した。

〈8〉 佐藤アヤ子は、昭和一二、三年ころから昭和一六年まで土呂久鉱山に勤務した。その間に皮膚、呼吸器等の障害が出現した。

〈9〉 高木光は、昭和一二、三年ころから昭和一六年閉山時まで亜砒焼きに従事した。その間皮膚症状や呼吸器の重篤な障害が出現した。

〈10〉 富高コユキは、大正一二、三年ころ土呂久鉱山に勤務した。そのころ皮膚症状や呼吸器障害が出現した。

〈11〉 亡米田嵩は、昭和一〇年ころから昭和一五年ころまで土呂久鉱山に勤務した。そのころから眼や鼻の症状が出現した。

第五  被告の加害責任について

一 被告と土呂久鉱山との関わり

被告は、戦後の昭和二五年以降、中島鉱山が経営する土呂久鉱山の産出鉱石(主に銅鉱、他に鉛亜鉛鉱)を買い受けていたものであり、中島鉱山とは鉱石売買取引における売主・買主の関係があったにすぎない。土呂久鉱山の稼業経営は、被告とは主体を全く異にする中島鉱山によって終始行われたのである。

その間、被告は、昭和三三年七月、土呂久鉱山が不測の坑内出水のため休山のやむなきに至り、鉱石供給遅滞に陥った後は、同鉱山の売鉱鉱山としての再起を期待して水没坑の排水と探鉱に助言援助を与え、また、主力鉱山を失って空前の経営危機に陥った中島鉱山の倒産を回避すべく同社の株式を取得して株主となったが、これらの措置は、あくまでも同社との鉱石売買取引を維持継続し、買鉱代前渡金債権の回収を図るための債権者としての支援に止まるものであって、その範囲を超えて、被告が中島鉱山を「完全に支配し」たとか、土呂久鉱山の操業に「全面的に関わった」などということは全くない。

二 実質的加害責任について

右のとおり、被告は昭和二五年以降、土呂久鉱山の鉱業権者であり経営主であった中島鉱山との間に鉱石売買による債権債務の関係を有したにすぎず、本件鉱害の原因とされる土呂久鉱山における亜砒酸製造とは終始全く何の関係も有しなかったものである。したがって、被告は本件鉱害の原因者でも加害者でもなく、また、土呂久鉱山における鉱業の実施者と同視されるべきいわれは全くなく、「実質的な加害責任」なるものを負うべき筋合いも全くないのである。

第四章  損害に関する反論

第一  損害の包括性について

原告らは、本件において健康被害以外の損害も存在するとし、それらは健康被害も含め包括的にとらえるべきであると主張するが、具体的にいかなる内容の損害が個々の原告らに生じたのか、損害の発生自体についての特定に欠けるばかりか、鉱業行為との因果関係の主張も定かでない。

したがって、原告らの主張するところの包括的な損害は、損害賠償請求の要件をみたす主張に至っているとはいえない。

第二  原告らの請求方法の誤り

一 包括一律請求について

原告らの主張する包括一律請求は、損害を、財産上の損害と非財産上の損害(慰謝料)とに区分し、各々につきそれを理由あらしめる事実を個別に主張・立証するという方法を全くとらないのであって、原告らの立証責任を免責する背理をもたらすと共に、被告に対しては正当な防御方法の行使を阻害するなど、損害賠償の法理を著しく逸脱するものである。また、損害を一律均一に捉えて観念することは、損害の個別的実態を無視することに通じ、妥当性を欠く結果になることは明らかである。

もともと、損害賠償制度は、被害者に生じた現実の損害を填補することを目的とするものであるから、現に生じた損害を厳密に認識確定するために若干の複雑さが要求され、原告側に立証上の困難を伴うことがあるとしても、それは事実の認定につき厳格な手続が要求される民事訴訟手続上当然のことであって、鉱害事件であるからといって、立証どころかその主張すらされていないことを、事件の複雑困難性とすりかえて包括一律請求を許容するなどという便法が安易に認められてはならない。

二 一部請求について

原告らは、本件請求について、公健法によってすでに填補された損害及び同法によって将来填補されるであろう損害を控除した総損害額として、死者について六〇〇〇万円、生存者について四〇〇〇万円の主張をしているのであるが、全損害額を明らかにすることなく、その一部を請求すると称する請求は不当であって到底認められるべきでない。けだし、原告らごとに各自生じたとする総損害額を確定したのちに、公健法等に基づく補償給付として各原告らが受領した金額を確定し、これを損害総額から控除して損害を算定するのでなければ、訴訟手続として明らかに不公平であるからである。

第三  被告側の事情

鉱業法は、「損害は公正且つ適切に賠償されなければならない」(鉱業法一一一条)と定め、かつ、「損害の発生に関して被害者の責に帰すべき事由があったときは、裁判所は損害賠償の責任及び範囲を定めるのについて、これをしんしゃくすることができる。天変、その他の不可抗力が競合したときも、同様とする。」(同法一一三条)と定めている。

被告側には次の事情があるので、仮に被告に賠償責任が認められるとしても、鉱業法の右規定にかんがみ、賠償額の算定には格別に配慮する必要がある。

一 稼業していないこと

被告は、土呂久地区において、全く稼業しておらず、原因行為をしていないのであるから、加害者として非難される筋合いは全くない。

したがって、利益の帰するところ負担も帰するという関係が全くないという事情や、本来加害者の負うべき負担の肩代わりに過ぎず、被告自体に対する非難や制裁とは無縁なものであるという事情を格別に考慮すべきである。

二 求償権行使の余地がないこと

被告が鉱業権を譲り受ける前に土呂久で亜砒焼を行った中島鉱山株式会社はすでに存在せず、また、それ以前に亜砒焼を行った土呂久の住民らに対し求償することも事実上期待し得ないところである。したがって、加害者でない被告が、むしろそれに近い立場にある原告らに対し、一方的に損害賠償を負担させられる理不尽が生じる。

三 原告らが砒素に曝露した可能性を考え得る時期は、最も遅くても二十数年前に既に終わっており、反面、喫煙、飲酒、加齢、多産、他の疾病、坑内労働等それまで及びその後の生活過程における数々の要因が、砒素曝露よりもはるかに大きな影響を与えている。これらは、損害の算定にあたり、被害者の責めに帰すべき事由として考慮すべきである。

四 本件損害の発生は、すべて第三者の行為によるものである。被告にとって、第三者の行為は、事実上不可抗力に属するものである。

第四編 抗弁

原告ら主張の鉱業法一〇九条に基づく本件損害賠償請求権は、仮に損害があり、その賠償義務者が仮に被告であるとしても、以下のとおり第一章ないし第四章の抗弁が成立するから、被告の賠償義務はない。

第一章  和解

第一  訴外亡甲斐国頼、原告佐藤千代三及び同佐藤タモに関しては、右の者らと被告とは、宮崎県知事(以下「知事」という。)の斡旋により、右の者らが本訴において主張する損害について(ただし、亡甲斐国頼についてはその相続人である原告甲斐シズカ、同甲斐久光が主張する損害について)、次のとおり和解契約を締結し、それぞれ和解金全額が支払われた。これにより、本件に関する右三名の損害賠償請求権は一切消滅した。

和解契約締結者 締結日             和解金額

亡甲斐国頼   昭和四九年一二月二七日   金二四〇万円

原告佐藤千代三 昭和五〇年五月一日     金二五〇万円

原告佐藤タモ  右同日           金二三〇万円

第二  仮に右事実が認められないとしても、右三名の損害は右和解金の限度で補填されている。

第三  限定的解釈論について

原告らは、後記のように、「仮に本件和解契約の効力が認められるとしても、その範囲は、各斡旋時における行政認定基準となった症状で、しかも当時既に発症していて、当事者に判明していた症状の限度でのみ、その効力を認めるべきである。」とし、右三名については、皮膚症状のみが具体的に補償の対象となった健康被害であって、その他の症状は補償の対償になっていない。」と反論する。

しかしながら、本件和解は、土呂久地区において、往時の鉱山操業に係る慢性砒素中毒症の罹患者が存在することが判明したのを契機に、宮崎県当局の行政上の措置方針に基づき、被害者が知事に対し、その斡旋和解による早期解決を求め、被告もまた、将来に一切の紛争を残さない円満解決を知事に求め、この双方の希望を達成するため知事斡旋が行われ、和解成立に至ったものである。

しかして、本件和解契約には次の約定がある。

〈1〉 補償は、砒素に起因する土呂久鉱山に係る健康被害に対するものであること。

〈2〉 補償は、この斡旋受諾前及びその後の一切の損害、すなわち、医療費、逸失利益及び慰謝料等を含む損害に係るものであること。

甲(被害者)は、補償金を受領したのちは、乙(被告)に対して、名目のいかんを問わず、将来にわたり一切の請求をしないものとする。

そして、〈1〉の補償の対象には、その当時砒素との因果関係が判明していた症状はもとより、それ以外の、当時被害者が申し立てた全身にわたるあらゆる症状、障害が含まれていたのであって、その上で、当事者双方は、被告の法的責任の有無、鉱山操業による被害の存否、当事者の砒素中毒症罹患の有無、中毒症状の範囲等、後に本訴の争点となった事柄について、真実を特に詮索することなく互いに譲歩し、右約定にそれぞれ合意して、知事の斡旋案を受諾したものである。

しかも、補償金額は、その当時の土呂久地区における世帯年間収入額、永年勤続した勤労者の退職金額、自賠責保険における後遺症に対する保険金額、当時の著名公害裁判例等に比べてみても、相当高額の水準にあった。

したがって、本件和解は、原告らが主張するような一部の症状のみに限定してなされたものではない。

第二章  消滅時効、除斥期間の完成

本件においては、以下のとおり鉱業法一一五条一項に定める消滅時効等が完成している。

第一  亜砒酸製造の終了と時効等

原告らの本訴提起は、訴外佐藤ミナトに関する原告富高由子、同寺田ユキノ、同工藤八千枝の訴については昭和六〇年三月一一日であり、その余の原告らについては昭和五九年一〇月三〇日である。

ところで、原告ら主張の損害の発生は、ほとんど土呂久における亜砒酸製造が本格化した大正末期から昭和一五年ころまでという主張であり、その後の原告らにおける症状等の主張もその頃発生した損害の延長であると解される。

原告らは、その各損害がすべて亜砒酸製造に起因すると主張するものであるし、その賠償義務者が鉱山企業を行っていた者であることを損害発生のころから知悉していたものである。

しかし、亜砒酸製造終了後における損害の発生は考えられないから、岩戸鉱山株式会社が土呂久鉱山を閉山し亜砒酸製造を止めた昭和一六年秋を起算点としても、三年経過した昭和一九年秋に、又は、中島鉱山株式会社が同製造を止めた昭和三七年秋を起算点としても、三年経過した昭和四〇年秋に、いずれも消滅時効が完成した。

さらに、昭和一六年秋を起算点として昭和三六年秋に、又は、昭和三七年秋を起算点としても昭和五七年秋に、いずれも除斥期間が完成した。

第二  土呂久を離れた者らと時効等

原告らのうち、佐藤マサ子、佐藤建吉、佐藤アヤ子、甲斐ミサエ、佐藤定夫、矢津田近、豊嶋重臣、高木光、富高曉、富高コユキは、いずれも一時は土呂久に居住し、又は鉱山に勤務等したが、その後土呂久を離れた。右の者らについては、その時以降の損害の発生はあり得ないから、それぞれが土呂久を離れて三年経過した日に消滅時効が完成し、また、二〇年経過した日に除斥期間も完成した。

第三  慢性砒素中毒症の認定、和解金の受領と時効

訴外佐藤鶴江らは、昭和五〇年一二月二七日被告を相手取り、土呂久における亜砒酸製造によって原告らと同様の損害を被ったとして、損害賠償を被ったとして、損害賠償を求める訴訟(以下「第一次訴訟」という。)を提起した。この事実はマスコミによって直ちに広く報道され、土呂久の住民はもとより、それ以外の地に住む者にとっても公知のこととなった。また、原告甲斐ミサエ、同富高曉及び同佐藤直の三名を除く原告らは、昭和四九年二月八日から昭和五五年一月一八日までの間に、慢性砒素中毒症の行政認定(以下「認定」ともいう。)を受けた。

原告らは、右訴訟提起と認定の事実を知ることによって、さらに、亡甲斐国頼、原告佐藤千代三及び同佐藤タモは前記の各和解金を受領することによって、損害の発生とその賠償義務者を知った。

よって、昭和四九年二月二八日認定を受けた亡甲斐国頼、同年一〇月一日認定を受けた原告佐藤千代三と同佐藤タモについては、各和解金受領又は右訴訟提起を知った時から、その他の原告らについては各認定を受けた時から、いずれも三年経過した日に消滅時効が完成した。

第四  死亡者と時効

亡大崎袈裟蔵は、昭和五二年一二月一五日慢性砒素中毒症の認定を受け、昭和五四年二月一日死亡した。亡佐藤ミナトは、昭和五四年四月一八日右認定を受け、同年一〇月二五日死亡した。亡米田嵩は、昭和五二年五月三一日右認定を受け、昭和五五年三月一四日死亡した。亡甲斐国頼は、昭和四九年二月二八日右認定を受け、昭和五五年七月三一日死亡した。

右死亡者ら及び遺族の者らは、いずれも前記佐藤鶴江らの訴訟提起を知っていたし、もとより死亡者が認定を受けたことも知っていた。

したがって、右死亡者四名については、各死亡時を起算点として、三年経過した日に消滅時効が完成した。

第五  その他の時効

さらに、時効の起算点をいかに遅くとらえたとしても、原告佐藤直、同佐藤千代三及び同佐藤タモについては、親族の佐藤正四が第一次訴訟を提起した昭和五三年三月七日から、また、原告富高曉については、同人が慢性砒素中毒症の認定申請を行った昭和五四年八月から、また、原告甲斐ミサエについては、昭和五四年ころには慢性砒素中毒症の認定申請を行い、そのころ既に第一次訴訟が提起されていたのであるから、昭和五四年ころから、また、原告佐藤トネについては、同人が公害健康被害補償不服審査会の裁決を受けた昭和五五年五月一九日から、それぞれ三年経過した日に消滅時効が完成した。

第三章  請求権の自壊による失効

原告らが本訴において主張する健康被害は、前期のとおり、土呂久における亜砒酸製造が本格化した大正九、一〇年ころから大正末にかけて、あるいは、昭和一〇年ころから一〇年代後半にかけて発症したというのである。しかし、原告らは、そのような自己の損害が発生したこと、その原因が土呂久鉱山の亜砒焼の排出物にあることをともに認識しながら、以後本訴に至るまで、短きは二〇年から長きは約五〇年の間、具体的な損害の賠償を鉱業権者に対し請求することなく、むしろ、鉱山の事業が発展し鉱山に就業することを希望し、現に原告らの多くは鉱山に勤務し、鉱山を収入源としていたものである。

被告が本件土呂久地区の鉱業権を債権の代物弁済として取得した昭和四二年当時においても、右事態のまま既に長年月経過していた。被告としては、右のごとき実情にかんがみ、最早何人からも慢性砒素中毒症による健康被害を理由として損害賠償を受けることなどあり得ないと信じて、本件鉱業権を取得したものである。叙上の経緯からすれば、原告らの本件損害賠償請求権は、権利の自壊により失効したというべきである。

第四章  損益相殺

第一  公害健康被害補償法の補償給付に基づく損害填補又は縮減

仮に以上の抗弁が認められないとしても、和解をしなかった原告佐藤マサ子ら一五名の原告らについては、本件口頭弁論終結時(平成元年一二月一三日)の時点で、別表「公健法給付一覧表」記載のとおり、公害健康被害補償法(以下「公健法」という。)による諸給付を受けている。右補償給付金(推計)は、公健法に定める療養の給付及び療養費、障害補償費、遺族補償費、遺族補償一時金、療養手当て、葬祭料の合計額である。

なお、大崎袈裟蔵の遺族補償費に関しては、妻である原告大崎北美が受給者であり、遺族補償一時金に関しては、富高コユキにつきその夫富高曉が、佐藤ミナトにつきその子佐藤一一が受給者であり、葬祭料に関しては、富高コユキにつき富高曉、佐藤ミナトにつき佐藤一一、大崎袈裟蔵につき大崎北美が受給者である。

ところで、右原告らは財産上及び非財産上の損害を包括した慰謝料を請求しているが、右諸給付は、給付名目がどのようなものであろうと、すべて右原告らの右請求に包摂される損害の填補を目的として支給されるものである以上、その受給は右原告ら主張の損害と同一の原因によって生じた利得であるから、損益相殺の法理によりこれを全損害額から控除すべきであり、右原告らの本件損害賠償請求権はその限度で消滅又は縮減している。

第二  労働者災害補償保健法の補償給付に基づく損害の縮減

一 亡佐藤建吉、原告豊嶋重臣、同高木光及び亡米田嵩は、いずれも重症のじん肺罹患者と認定され、同人らは、労働者災害補償保健法(以下「労災法」という。)によって、別表「じん肺補償給付一覧表」記載のとおり補償給付を受けている。

なお、同表掲記の給付のうち、遺族補償年金、遺族特別年金、遺族特別支給金の受給者は、亡佐藤建吉については原告佐藤キミ子、亡米田嵩については原告米田アヤノ、亡米田嵩の葬祭料の受給者は原告米田寿成である。

二 じん肺に罹患しておれば、慢性気管支炎等が必然的に随伴するものである。そこで、仮に原告ら主張のように、亡佐藤建吉らの呼吸器障害や心臓障害等に、慢性砒素中毒の関与があったとしても、右障害に対しては、右のとおりじん肺の認定に基づく労災法による補償給付がなされているのであるから、これによって右の者らの障害は填補されているものというべきである。したがって、損益相殺により、右補償給付のうち、遺族補償年金、遺族特別年金、遺族特別支給金、葬祭料についてはこれを受給した右各原告らに対する賠償額から、その余の補償給付についてはこれを受給した原告豊嶋重臣、同高木光、亡佐藤建吉及び亡米田嵩に対する賠償額から、それぞれ控除されるべきである。

第五編 抗弁に対する認否と反論

第一章  和解の抗弁について

第一  亡甲斐国頼、原告佐藤千代三及び同佐藤タモについて、知事が被告と右三名との和解斡旋をなし、これに基づいて被告主張の日に主張の和解金額欄記載の各金額に相当する金員が支払われたこと及び本件和解契約の内容とされている斡旋案に被告主張の二条項が存在することは認めるが、その余の事実は否認ないし争う。

第二  限定的解釈

仮に後記要素の錯誤及び公序良俗違反による和解無効の再抗弁が認められないとしても、以下の事実に照らし、本件斡旋和解に文字どおりの効力を認めることは極めて不当であるから、合理的に限定して解釈すべきである。

すなわち、本件各斡旋当時は、慢性砒素中毒症の病像や症状の砒素起因性について未だ十分な解明がなされていなかった。そこで、知事側は、砒素に起因する症状を、被害者らが有している多彩で深刻な全身的症状として捉えず、行政認定基準の症状に限定されたものと判断し、しかも、各斡旋当時被害者らに具体的に発症し、かつ、その症状が当事者に判明していたものに限定し、これをのみ補償の対象として和解金を算定したものである。認定後肺癌で死亡し、その遺族が第三次斡旋を受けた訴外佐藤健蔵に関する斡旋案には、「死亡の原因と慢性砒素中毒症との関連について斡旋者が判断でき得た時点において補償内容及び補償額を検討することを留保する」との条項が付されている。右事実は補償の対象が行政認定基準の症状に限定されていたことを如実に示すものである。

それゆえ、たとえ各斡旋時において認定症状の範囲に含まれる症状が存在しても、当事者に判明していなかった症状はもとより、その後新たに発症、増悪した症状は補償の対象に含まれていなかった。右のような経緯の中で、亡甲斐国頼、原告佐藤千代三及び同佐藤タモについては皮膚症状のみが具体的に補償の対象となった健康被害であって、その他の症状は補償の対象になっていなかった。

ところで、原告らの砒素に起因する被害は、健康被害に限っても、各斡旋時に補償の対象となった右認定基準の症状に限らず、前期のとおり死の結果も含む全身性かつ進行性の深刻、多様な症状である。それだけでなく、原告らが本訴で主張している損害は右健康被害にとどまらず、社会的、経済的、家庭的、精神的被害等のすべてを包括する総体である。しかも、その被害は長年にわたる苦痛に満ちた深刻、甚大なものである。しかるに、右被害に比べ、右原告らが受領した金額はあまりに低く、公正、適切な損害賠償とは到底いえない。

もっとも、斡旋案の中には請求権放棄条項があるが、右の事実関係に照らすと、補償の対象以外の症状については、効力のない単なる例文規定に過ぎないものとみるべきである。

したがって、仮に本件和解契約の効力が認められるとしても、その範囲は、各斡旋時における行政認定基準となった症状で、かつ、当時既に発症していて当事者に判明していた前記症状の限度でのみ、その効力を認めるべきである。

第二章  消滅時効等の抗弁について

第一  消滅時効及び除斥期間に関する主張事実はすべて否認ないし争う。

第二  現在なお進行する損害

一 損害の進行性

鉱業法一一五条二項は、消滅時効の起算点について、「進行中の損害については、その進行のやんだ時から起算する。」と規定しているところ、慢性砒素中毒症は全身の諸臓器に広範な障害をもたらす全身性の中毒症であって、その症状は長期間にわたり継続するだけでなく、体内の諸々の部分に時期を異にして発症、増悪し、ついには死に至るまで悪化する。

砒素中毒の症状は多彩な症状の組合せからなっているが、それらはすべて砒素中毒という一個の中毒の発現形態であるから、個々の症状毎に損害を捉えるのではなく、全身にわたる健康障害を全体的に一個の損害として捉えるべきである。

しかるところ、生存原告らの健康被害は今なお増悪しているのであるから、その損害は、全体的に進行中であって、同法条項にいう「その進行のやんだ時」は到来していない。

二 加害の継続

土呂久鉱山は大正九年ころから亜砒酸製造鉱山として変貌を遂げ、土呂久地区は大気、水、土壌のすべてが砒素による濃厚な汚染を受けることとなった。

この汚染は、大正九年ころから昭和一七年ころまで及び昭和三〇年ころから昭和三七年ころまでの亜砒酸製造期間中に排出された鉱煙等のほか、亜砒酸製造の終了後も有効な防止対策がとられないまま土呂久に堆積され続けてきた捨石や鉱滓及び操業終了後も放流された坑水により、継続されてきたものである。

したがって、原告らのうち、土呂久に在住し引き続き汚染の影響を受けている者については、砒素曝露の継続による症状の増悪、進行は現在も否定できず、この意味でも損害の進行がやんだとはいえない。

第三  短期消滅時効の起算点について

一 公害病認定と「損害を知った時」との関係

仮に消滅時効の進行が問題になるとしても、その起算点たる損害を知った時とは、本件の場合、慢性砒素中毒症が全身的で多彩かつ進行性の症状をもつものであるとの病像が権威ある機関によって公に認定された時、すなわち、第一次訴訟の一審判決がなされた昭和五九年三月二八日が最初である。

したがって、行政認定の時点では、原告らにおいてせいぜい損害の一部を知ったというに過ぎず、全身性の広範な健康被害としての慢性砒素中毒症全体との関係では、未だ「損害を知った時」とはいえない。

二 「賠償義務者を知った時」について

この点についても、本件の場合、その賠償義務者が誰であるかを、損害賠償請求権の行使が事実上可能な程度に知り得た時は、早くとも原告らが弁護団と協議し、本件提訴に及んだ直前ころというべきである。

第四  除斥期間の主張について

鉱業法一一五条一項後段の二〇年の期間は、同条二項により、損害の進行がやんだ時から起算されるところ、原告らが主張する慢性砒素中毒症は、少なくとも本件提訴前二〇年以内に新たな症状の発生若しくは症状の増悪があり、これらは全体として一個の損害とみるべきであるから、原告らの損害はまだ進行中というべく、同条の適用はない。なお、右期間の法的性質は時効期間と解すべきである。

第三章  請求権の自壊による失効の抗弁について

抗弁事実はすべて否認ないし争う。

第四章  損益相殺の抗弁に対する認否と反論

第一  公健法関係

一 和解をしなかった佐藤マサ子ら一五名の原告らが、本件口頭弁論終結の時点で、それぞれ公健法による被告主張の額の諸給付を受けていること、その内訳は別表「公健法給付一覧表」のとおりであること及び受給者関係の事実は認めるが、その余の事実は否認ないし争う。

二 原告らが本件訴訟において主張する損害は、これまで公健法によって補填されていないもの及び将来も同法により補填されないものをいうのであるから、同法による諸給付の控除を求める被告の主張は失当である。

三 右原告らが公健法による諸給付を受け、その限度で損害が補填されたとしても、原因者たる事業者は給付に要する費用を本制度に基づいて拠出したものに限り、その給付額の限度において被害者に対する損害賠償の責めを免れるところ、被告は右費用を拠出していない。したがって、被告には、原告らが公健法の諸給付を受けたことを理由に損害の補填があったと主張する資格はない。

四 仮に公健法による諸給付が損害の補填であって、これを控除することがやむを得ないとしても、療養の給付と療養手当ては、いずれも積極損害に対する補填であって、原告ら主張の損害の中に含めていないから、これを控除すべきではない。

五 また、富高コユキに関する遺族補償一時金の受給者は、夫富高曉であるから、コユキの相続人たる原告らにつき右給付金を控除することは許されない。

第二  労災法関係

一 損害相殺第二、一の事実中、療養補償給付については、原告豊嶋重臣、同高木光、亡佐藤建吉及び亡米田嵩が労災法による療養補償給付を受給していたことは認めるが、受給額は知らない。

休業補償給付及び休業特別支給金については、亡佐藤建吉以外の三名が、被告主張の額の休業補償給付及び休業特別支給金を受給したことは認める。

亡佐藤建吉については、被告は「休業補償費」として一括して金三六三万六七七六円を受給したと主張するが、このうち休業補償給付は金二七二万七五八二円であり、金九〇万九一九四円は休業特別支給金であって、両者の性格は全く異なる。

傷病補償年金、傷病特別年金及び傷病特別支給金については、亡佐藤建吉が傷病補償年金として金二三〇一万四六七九円、傷病特別年金として金四三六万〇五四一円を受給したことは認める(被告はこの合計額金二七三七万五二二〇円をすべて傷病補償年金と主張するが、これは誤りである。)。傷病特別支給金として金一〇〇万円を受給したことは認める。

原告豊嶋重臣が、傷病補償年金として金三七八万二三三三円、傷病特別年金として金七五万六八七五円を受給したことは認める。各年金のその余の主張額については否認する。傷病特別支給金として金一〇〇万円を受給したことは認める。

原告高木光が、傷病補償年金として金三九一万五三〇〇円、傷病特別年金として金七八万三五二五円を受給したことは認める。各年金のその余の主張額については否認する。傷病特別支給金として金一〇〇万円を受給したことは認める。

亡米田嵩が、傷病補償年金として金二一六万六七〇〇円、傷病特別年金として金三六万六〇〇〇円を受給したことは認める。

遺族補償年金、遺族特別年金及び遺族特別支給金については、亡佐藤建吉関係では、遺族補償年金として金二五六万六五五〇円を、受給権者である原告佐藤キミ子が受給したことは認め、その余の主張額については否認する。遺族特別支給金として金三〇〇万円を受給したことは認める。

亡米田嵩関係では、遺族補償年金として金一二八七万一二五〇円、遺族特別年金として金二一一万八三五〇円を、受給権者である原告米田アヤノが受給したことは認め、その余の主張額については否認する。遺族特別支給金として金二〇〇万円を受給したことは認める。

葬祭料については、亡米田嵩の葬祭料として金三二万五九三六円を、同人の親族である原告米田寿成が受給したことは認める。

二 同二項の事実は否認ないし争う。

三 被告は、亡佐藤建吉とその遺族、原告豊嶋重臣、原告高木光、亡米田嵩とその遺族が受給した、労災法による保険給付である療養補償給付、休業補償給付、傷病補償年金、遺族補償年金、葬祭料(以下これらを総称して「労災保険給付」という。)と、労災法二三条により労働福祉事業として給付される休業特別支給金、傷病特別支給金、傷病特別年金、遺族特別支給金、遺族特別年金(以下これらを総称して「労働福祉事業給付」といい、労災保険給付とこれを合わせて「労災法保険給付等」という。)をすべて損益相殺すべきであると主張するが、以下に述べるとおり、これは許されない。

1 本訴請求には労災保険給付等により填補される損害は含まれない。

(一) 本訴請求は、前記損害総論において述べたように、原告らの生活総体を破壊されたことに対する包括慰謝料請求である。本訴請求がこのような形であるのは、本件被災における精神的損害(非財産的損害)と財産的損害とが元来区別し得ないものであり、また、その両者が相乗的に影響し合って損害を拡大していくものであるからである。とすれば、本件慰謝料請求のうち、労災保険給付等によって填補される財産的損害部分が何かを検討することは、それ自体意味のないことである。

さらにいうならば、本件原告らの疾病が進行性の全身にわたる症状を有し、生存原告にとっても将来に死をもたらす可能性のある重篤なものである以上、本件慰謝料請求の中心は、むしろ精神的な損害、数額に表し難い非財産的な損害であるといわなければならない。したがって、かかる損害の一部分を切り離す形で、財産的損害のみの填補ともいえる労災保険給付等を控除の対象とすることは、許されるべきではない。

(二) とりわけ、受給した給付のうち、療養補償給付は、指定病院における療養の現物給付若しくは指定病院等以外の病院等において受けた療養の補償給付であるし、葬祭料も、葬祭を実施した者に対する実費填補である。すなわち、これらの損害は、精神的損害ではないことはもとより、失った生活費等の消極的な財産的損害とも質の異なる積極損害なのである。原告らが、このような損害を本訴における包括慰謝料請求に含めていないことは明白である。

2 民事賠償制度と労災保険制度とは異質の制度である。

(一) 民事上の損害賠償制度は、市民相互の間において発生した損害を、公平の理念に基づいて負担せしめるための制度であり、賠償の対象となるものは、財産的損害に限らず、精神的損害・非財産的損害を包含している。

これに対し、労災保険制度は、憲法二五条、二七条を受けて、労働者が人たるに値する生活を営むための最低基準を定立して、業務上であることを唯一の条件として法定補償を行い、使用者をして労働者ないしその遺族の生活を保護せしめるために、保険制度を利用することによって集団としての使用者の責任の拡大・徹底を図る制度である。したがって、労災保険制度は被災による損害の填補それ自体を目的とするものではなく、被災者の生活確保を第一義とする生活保障制度である。

このように、両制度は本来相互補完の関係に立つものではなく、また、補償の範囲、要件も異なっていて、制度目的からみて、被災者が結果的にある部分において二重に利益を受けることを排除するものではない。

(二) 被告は、被災者が労災保険給付を受けたときは労働基準法八四条二項の趣旨が類推され、損益相殺が許されると主張するが、右条項は使用者が被災者に対して直接に二重の出捐を強いられるという不利益を防止する規定であり、使用者が直接の出捐を行わない労災保険給付にまで妥当するものではない。

3 労働福祉事業給付の特殊性

被告は、労災保険給付のみならず、休業特別支給金等の労働福祉事業給付も損益相殺の対象となると主張している。

しかし、この給付は、労災法二三条により労災保険の適用事業に係る労働者及びその遺族の福祉の増進を図るために政府が行うものとされた、労働福祉事業としての給付であり、保険給付とは性質が異なる。それゆえ、これは他の保険給付との支給調整もされないし、昭和五五年の労災改正により新設された同法六七条の民事賠償との支給調整の対象ともされていないのである。

以上からすれば、これが損害の填補としての性質を持っていないことは明らかであって、損益相殺は許されない。

4 損益相殺される年金給付の範囲

仮に、労災保険給付等の既受給分の損益相殺が認められるとしても、それは亡佐藤建吉ら受給者が現実に受給した給付額に限られるべきである。けだし、既受給分の損益相殺を肯定する理論的根拠は、労災保険給付等が民事賠償と同様に被災者の損害填補の性質を有するというところにあるのであり、そうであれば、右給付によって民事損害賠償請求権が消滅するのは、現実にその給付が行われ損害填補がなされた場合に限られるというのが論理的帰結だからである。

被告は、傷病補償年金、傷病特別年金、遺族補償年金、遺族特別年金について、弁論終結時である平成元年一二月までの受給額を推計して、これを損益相殺すべきであると主張するが、これらの年金は法規上毎年二月、五月、八月及び一一月の四期にそれぞれその前月分までを支給することとされているのであり、原告らが弁論終結時までに現実に支給を受けたのは、平成元年一一月に受給した同年一〇月分までのものが最後であるから、これ以降の受給額を推計により算出して相殺の対象とするべきではない。

第六編 再抗弁

第一章  要素の錯誤による和解の無効

本件和解契約の内容とされている斡旋案には、第四編第一章、第三(限定的解釈論について)記載の二条項が存在する。しかるに、第五編第一章、第二(限定的解釈)で主張したとおり、知事側は、砒素に起因する症状を、斡旋当時の行政認定症状であって、しかも、被害者らに現に発症している症状に限定していた。そして、各斡旋時に補償の対象になった症状は、亡甲斐国頼、佐藤千代三及び佐藤タモにつきいずれも皮膚症状に限定され、その他の症状は補償の対象になっておらず、右三名も、斡旋の過程においてその旨の説明を受けた。そのため、右三名は、知事側が説明したその当時の行政認定症状に対する補償金を考え、これを前提として斡旋案を受諾した。

しかし、前記のとおり、原告らが慢性砒素中毒症によって被った被害は、健康被害はもとより、社会的、経済的、家庭的、精神的被害を包括するものであり、健康被害も全身性かつ多様で、長期に及ぶ深刻な障害であるから、もし、右以外の症状による被害を含めた一切の被害が前提とされていたのであれば、右三名は斡旋を受諾するはずがなかった。

したがって、本件和解契約は、右三名と被告との間で相互に認識して契約の前提とした被害と、実際のそれとの間に錯誤があり、これは契約の重要な事項にかかわるものであるから、民法九五条により無効である。

第二章  公序良俗違反による和解の無効

第一  知事斡旋の目的からくる必然的不公正

知事斡旋に至るまでの県当局の態度は、公害防止と救済を求める住民の声を封じ、戦後の亜砒酸製造再開に積極的に関与し、昭和三七年の操業終了後も亜砒酸による汚染について何らの行政措置を講じないまま放置してきた。

しかるに、昭和四六年土呂久公害問題が提起されるや、県は異例の早さで調査等を行い、本件斡旋に乗り出した。そして、知事斡旋の目的は、もともと加害者としての地位をもち公正中立な斡旋者に馴染まない知事が、従前からの企業擁護の立場から、被害者切捨てによる問題の早期収拾を図ったもので、それゆえ被告の唯一の条件である請求権放棄条項に忠実に固執した。

第二  被害者要求に対する一貫した押さえつけ

知事は、一貫して、あらゆる場面で被害者の要求を押さえ込んだ。例えば、被害者が全身的症状に対する完全補償を要求したのに対し、症状は行政認定基準に限定されていると説明して、不当に低い額を押しつけたり、第一次から第五次斡旋にかけて被害者から出された金二〇〇〇万円前後の補償要求、金額上積み、請求権放棄条項の削除等の諸要求を被告側に伝えず、これを押さえ込んだ。特に、第三次斡旋における要求(慰謝料金一六〇〇万円のほか将来の生活費等を求めるもの等)については、斡旋依頼の趣旨に反するとして強引に撤回させ、斡旋への白紙委任をさせた。また、知事は、被害者らに代理人選任方を助言しないばかりでなく、被害者が選任した代理人(被害者を守る会の会長)の立会いを拒否し、外部との相談を阻止した。被害者らが斡旋案に同意するや、すかさず承諾書に押印させたにもかかわらず、被告からはこれを取っていない。

第三  三人委員会の役割

知事は、斡旋に当たって、設置要綱を定め、弁護士二名と医師一名から成る三人委員会に委嘱して、斡旋案の作成を求めた。しかし、この三人委員会こそ、知事の早期収拾の目的を実現するための公正さを装った低額押しつけの道具であった。

すなわち、三人委員会は事情聴取の場でも被害者らの要求、訴えを真摯に聞こうとせず、押さえつけの説得、説明をした。その答申額は、被害者らの深刻、重大な全損害に対するものというのであれば、あまりにも低額であり、算定の根拠はあいまいで合理性がないものである。

第四  第一次斡旋における外部との遮断

知事は、第一次の斡旋において、被害者らを宮崎市内の平安閣に缶詰にし、外部との連絡を一切遮断した中で、斡旋案を遮二無二押しつけた。

第五  補償の対象

この点については、前記和解の限定解釈のところで言及した事情がある。

なお、前記佐藤健蔵に関する斡旋案中の留保条項についても、その斡旋当時既に環境庁から知事に対し、「慢性砒素中毒の認定患者については、肺癌は右中毒によるものとみなして差し支えない」旨の通達がなされていたにもかかわらず、前記の留保条項が付されたものである。右事実は、知事が被害者に有利な事情をも敢えて不利にし、被告の代弁者として振る舞ったことを端的に物語っている。

第六  公健法を巡る問題

昭和四九年九月一日から公健法が施行され、第三次斡旋以降の認定患者に適用されることとなった。公健法は水俣病等の公害判決を背景に成立した画期的なものであるが、補償の内容としては、現在から将来に向けての補償に重点を置いたものであって、過去の全損害と慰謝料のすべては除外され、飽くまで一部補償、最低補償の意味を持ったものであった。

このような公健法の出現は新しい事情の変化であるから、知事としては、第三次斡旋以降についてはこれまでと異なり、被害者に対し公健法の趣旨と内容、限界を十分に説明し、被害者に有利な面は最大限に活用すべきであるとともに、公健法で補えない部分を斡旋で最大限に補い、しかも、それが逆に公健法以下にならないよう特段の配慮をすべきであった。このように公健法の内容は一部的かつ限定的なものであるから、同法の適用と斡旋は両立できるものである。

しかるに、知事は、両立し得るとの説明や具体的算定を全く行わず、あたかも被害者らに新法、斡旋の二者択一しかないものと思い込ませ、事実上斡旋を受けることを強要した。公健法の以上のような性格、内容にもかかわらず、斡旋によって一切の請求を放棄させようとした知事斡旋は、被害者に著しく不公正、不利なものである。

第七  被害者らの無知、窮迫

訴外佐藤鶴江らは、昭和四六年六月三〇日土呂久鉱害事件に関する法律扶助の申請をしたが、「事実、法律関係を確定する見通しが立たない」として昭和四九年三月一六日付けで却下された。したがって、右時点においてさえ、被害者らに具体的権利行使の目処は立ってなかった。

また、土呂久公害告発後、弁護士が現地を訪れ、被害者から事情を聞いたことはあったが、具体的に相談や依頼を受けたことはなく、各斡旋において弁護士らが相談を受け、又は代理人になったこともない。もっとも、昭和四九年ころ、本件公害の被害者らによる「被害者の会」や善意の人々による「被害者を守る会」が作られたが、これらは本件裁判を直接目指したものではなかった。

一方、和解をした原告らが経済的に窮迫していたことは明白である。右原告らは鉱毒により全身を蝕まれ、労働能力はもとより生活能力まで奪われ、長年の間仕事等をまともにできず、生活環境の破壊も加わる中で貧窮の生活を余儀なくされた。以上のような事情がまさに和解金受領の背景になっていたのである。

第八  契約内容の不当性

原告らが本件訴訟で主張している損害の内容は、前記限定的解釈のところで主張したとおりであり、請求金額は他の公害判決と比較しても高すぎることはない。しかるに、知事斡旋による和解金は、このような本件被害に対する賠償としてはあまりにも低額であり、しかも、請求権放棄条項によって一切の請求権を放棄させるというのであればなおさらその内容は不当極まりない。

第九  多数の和解金受領者の意味

土呂久公害においては、これまで八二名の認定患者が和解金を受領しているが、土呂久の場合は、右事実自体が斡旋の不当性を示している。すなわち、知事は、斡旋に当たり、土呂久において長年培われた村落共同体としての一体性を最大限に利用した。例えば、第一次斡旋において地域振興金の交付を契約に入れたのも、一人でも斡旋を拒否すれば土呂久住民が右金員を受けられなくなるということで、事実上個々の拒否を不可能にする効果を期待したものとしか考えられない。また、知事側は、斡旋の過程で「一人でも拒否したら斡旋を受けられなくなる」などとさかんに説得し、あるいは、被害者らをしてそのように思わざるを得ないように仕向けた。各斡旋において被害者からの自発的依頼という形式がとられているが、実はこれも部落の一体性を利用し、被害者の要求を封じ込んだものである。

このように、土呂久公害においては、知事は、狭い村落共同体の絆や行政当局の権力を利用して、部落ごと斡旋の中に取り込み、不当な内容の受諾を押しつけたものであるから、多数の補償金受領者の存在は、斡旋の不当性を示すものにほかならない。

第一〇  まとめ

以上のとおり、知事斡旋はその方法、内容に重大な問題があり、事実上被告の代弁者として振る舞った知事が被害者らの無知、窮迫に乗じ、不公正な方法で、実際の損害に比べ著しく低い額と引換えに、被害者らの正当な損害賠償請求権を不当に放棄させることだけを目的としてなされたものである。したがって、本件和解は公序良俗に反し、民法九〇条により無効である。

第三章  消滅時効の中断と催告

仮に本件提起前に消滅時効の起算点が到来しているとしても、本件提訴によって、時効の進行は中断し、又は裁判上の催告がなされている。

第四章  権利の濫用又は信義則違反による時効の援用の無効

仮に消滅時効が成立するとしても、その援用は、以下の事情に照らし権利の濫用又は信義則違反により無効である。

第一  土呂久鉱山の亜砒酸製造は大正九年ころ本格化し、恵まれた土呂久の生活は鉱煙によって根底から覆されてしまった。そのため、大正一二年、地区住民から成る和合会は鉱山側と折衝し、煙害の補償として一か月金五〇円の交付金を受ける約束を結んだ。

大正一四年、獣医池田牧然らは、斃死した牝牛の解剖書を宮崎県に提出したが、握り潰された。

その後も土呂久住民は、鉱山経営者や県等に対し被害を訴え続けたが、聞き入れられず、ついに昭和一六年、和合会は、県に対し操業を中止させるようにとの陳情書を提出し、操業中止を巡って鉱山側とはげしく対立した。

そのため、住民の代表六名が福岡鉱山保安監督局に呼び出され、「県報告によれば被害はない」として亜砒酸製造の続行同意方を強要された。住民らは、県は調査をしていないと抗議した。その後同局が調査に来たが、その結果は土呂久住民に知らされず、住民らの陳情は行政当局から完全に無視された。

昭和二九年、鉱山経営者は、和合会に対し、「煙の出ない窯」の試験焼きをさせて欲しいと申し入れてきたが、戦前二〇年にわたって公害に苦しめられた土呂久住民は亜砒酸製造の再開に反対した。これに対し、鉱山経営者は、村や県をして住民を説得させる一方、「新型の改良窯だから煙害は出ない」とか、「試験焼きであり、煙害が出たら直ちに操業を中止する」などと住民を欺いた。

そして、住民の主だった者を松尾鉱山(当時同じ窯を使用していた)に案内し、その関係者に「新焼き窯は煙が出ず、椎茸は育つ」といわせて、新焼き窯の宣伝に務め、更に、和合会に対し、協力金三〇万円の支払い方をもちかけて懐柔をはかり、ついに住民に亜砒酸製造の再開を了承させた。

かくして、試験焼きの名目で亜砒酸製造が再開されるに至ったが、改良新窯は実は煙害を防止するものではなく、専ら生産効率を高める目的のものであったため、日ならずして住民の不安を現実のものとした。煙害の発生に怒った住民は、鉱山側の契約違反に抗議し、再度行政当局に陳情したが、昭和三七年の閉山時まで放置された。他方、煙害に対する対策や改善は、戦後も何ひとつ配慮されていない。

約束に違反して、亜砒酸製造の操業を本格化していきながら、被害調査をした形跡もなく、また、これを敢えて放置した行政当局の態度に、企業擁護、被害者無視、切捨てという本来の意図が如実に示されている。

第二  ところで、昭和四六年斉藤教諭の問題提起を契機に、以上のような加害の歴史がようやく世の注目を浴び、被害住民による責任追求の運動や裁判が始まろうとするや、被告は、突如として保安対策に名を藉り、長年放置してきた窯跡を取り壊して覆土したり、喜右衛門屋敷を焼き払うなどの証拠湮滅をなし、地域振興金名目で土呂久地区に根拠不明のなにがしかの金員を配ることにより、地域共同体を利用して、被告に対する責任追求運動を抑圧分断するなどして、原告らの損害賠償請求権の行使を事実上困難にしてきたものである。

第三  以上の経緯に加え、本件における賠償義務者の判断は高度に技術的なこと、慢性砒素中毒症の症状は広範、多彩な進行性のもので極めて深刻な病状であるにもかかわらず、十分な解明と知見が得られてこなかったこと、原告らの病状は長期にわたる悲惨なもので、生活破壊が著しいことに照らすと、本件被害につき法的責任を有する被告が消滅時効を援用するのは、原告らに計り知れない苦痛を与えるものであるから、権利の濫用であり、信義則違反として許されない。

第七編 再抗弁に対する認否

再抗弁第一ないし第四章の事実はすべて否認ないし争う。

第八編 証拠〈省略〉

⑩ 第一章 鉱害

第一節 土呂久鉱山の概要及び本件当事者

第一編第一章第一節記載の事実は、当事者間に争いがない。

第二節 鉱害の原因

第一  鉱煙の排出

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、〈証拠〉中右認定と異なる部分は、前掲証拠と対比して措信し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

一 戦前における亜砒酸の製造

1 製造規模・設備等

土呂久地区において亜砒焼が始められた大正中期以降、鉱石を掘る坑口及び亜砒酸を製造する窯の位置や数は、時期により変動があったが、戦前の亜砒焼の最後ころにあたる昭和一〇年代前半ころには、土呂久東岸及びその東の山の斜面に、一番ないし四番坑、梨の木坑、大切坑、疏水坑といった坑口が掘られ、窯は、川の東岸近くにある一番坑の付近に粗製窯が三ないし五基、精製窯が一基設置され、川をやや下ったところに反射炉が一基設置されていた。鉱山で作業する従業員は、坑内坑外を含め二、三百名ほどであったが、地域の農民が多数従事していたため、農閑期には増え、農繁期には減るという状態であった。

戦前使われていた亜砒焼窯(以下「旧亜砒焼窯」という。)は、粗製窯と精製窯の二種類があった。粗製窯は鉱石を直接焙焼するための窯であり、精製窯は、粗製窯で製造された亜砒酸のうち、純度の落ちるものをさらに精製するための窯であった。これらの窯はいずれも、粘土を用いて石を積み上げた簡単な構造のもので、高さ約三メートル、幅約四メートル、奥行約一〇ないし一一メートル程度の大きさであり、内部は炉とそれに直列に配列された三室程度の集砒室からなっていた。集砒室は炉に近い順に一号、二号、三号と呼ばれ、三号集砒室の先端には高さ約三メートルの木製の煙突がつけられていた。窯の内部には、炉から各集砒室を通って煙突まで煙道が通されていた。これらの窯のほかに、昭和一〇年ころになって設置された反射炉と呼ばれる炉もあった。これはコンクリート造りで、高さ約二・五メートル、幅約四メートル、奥行き一五ないし二〇メートルあり、炉とそれに続く三室の集砒室からなっていた。

2 亜砒酸の製造方法

坑内から採掘された鉱石を選鉱し、砒鉱の塊鉱のうち大きなものは、焙焼の際の火の通りを良くするため、約三センチメートルの大きさに砕石した。また、その際に生ずる砒鉱の粉末は、水や粘土を加えて練りまぜ、こぶし大の団子状(団鉱)に丸めた。

この団鉱と塊鉱を粗製窯の炉に薪と共に投入して点火した。そして、当初は薪の燃焼により、後には鉱石中に含まれる硫黄の自燃によって、鉱石中の砒素を酸化させ昇華させて亜砒酸の気体とし、これを自然通風により煙道を通じて炉に続く集砒室に導き、自然に冷却させて亜砒酸の個体を凝集させ、焙焼後に回収した。炉に近い一号室集砒室には純度の良い精砒が、二号、三号室にはそれよりも劣る粗砒がそれぞれ凝集し沈降した。このうち粗砒は、さらに精製窯に投じ、木炭の燃焼によって昇華させ、より純度の高い亜砒酸として集砒室に沈降させた。

粗製窯による焙焼は、点火後は終了まで鉱石や薪を追加することなく、約五日ないし一週間、空気の調節をするのみで継続した。精製窯の方は、一定時間毎に粗砒と木炭を交互に投入し、ほとんど連続的に稼働させた。

なお、採掘した鉱石のうち、錫鉱と砒鉱とが混じり合った、錫鉱としての品位の劣るものから錫を分離する方法として、昭和一〇年代の初めころ、土呂久の南方の東岸寺地区にあった選鉱場でこれを粉砕し、一度浮遊選鉱法によって錫鉱を選鉱した後、残った砒鉱混じりの錫の粉鉱を土呂久に返送して、前記反射炉によって木炭やコークスで燃焼し、燃焼によってできた酸化鉄を磁石で除去するという方法で錫の分離が試みられた。この反射炉は、一度浮遊選鉱された水分や油分の多い粉鉱を焙焼したので、十分に燃焼せず、錫の分離は思うように行かなかった。そこで一、二年ほどでこの方式は中止され、反射炉も使われなくなった。

反射炉の使用中は、前記のとおり集砒室が付設されて、燃焼により生産される亜砒酸を副産物として回収したが、この反射炉の亜砒酸は、すべて純度が低くそのままでは製品にならなかったため、これを精製窯まで運んで、前記同様の方法でさらに精錬した。

3 製造期間及び亜砒酸生産量

戦前の亜砒酸製造は、大正九年頃から始まり、昭和一六年秋に東岸寺の錫選鉱場が火災に遇って閉鎖されるまで継続した。当時の農商務省鉱山局の統計により判明する、昭和八年以降の土呂久鉱山の亜砒酸生産量は、合計一四一七・六トン余りであって、年平均にして約一五七・五トンであり、特に昭和一三年以降一五年までは、年間二〇〇トンを優に超えた産出をしていた。

二 戦後における亜砒酸の製造

〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができ、右認定を左右するに足る証拠はない。

1 製造設備等

土呂久鉱山の亜砒酸精錬は、昭和一七年以降中断されていたが、昭和三〇年になり、三番坑の上方、四番坑の手前に、山の斜面を切り開いて新式の焙焼炉(以下「新亜砒焼窯」という。)が一基建設された。そして、大切坑と一番坑を中心に採掘した砒鉱をケーブルで運び上げ、砕石した塊鉱と団鉱とを焙焼して亜砒酸の精錬を開始した。

新亜砒焼窯は、外径約一・五メートル、内径約一メートル、高さ三メートルの、鉄製で内側に耐火レンガを張った円筒形の炉と、炉から煙道で結ばれた、高さ及び幅がいずれも約三メートル、奥行きが約一四メートルの石積みの集砒室が四室と高さ約六メートルの煙突とからなっていた。炉は上部に漏斗状の鉱石投入口が、下部に残滓や灰を落とすためのロストルが、横に空気取入口兼覗き穴が設けられており、他方、集砒室は内部が四室に区切られて、それぞれに亜砒酸の取出口がつけられていた。

2 亜砒酸の製造方法

新亜砒焼窯の亜砒酸製造も、原理的には旧窯と同様であったが、連続式の操業方法をとったところに特徴があった。すなわち、炉に砒鉱とコークスを投入し、点火後も、一時間に二、三回ずつ焙焼の終わった鉱石を炉の下方から取り出し、かつ、炉の上方から鉱石と燃料を投入し続け、一日三交代の作業で二四時間途切れることなく焙焼を継続したのである。

集砒室に沈降した亜砒酸のうち、三号室、四号室のものは、再度窯に投入されて精製された。

3 生産量

昭和三〇年から昭和三七年にかけて土呂久鉱山で生産された亜砒酸は、少なくとも合計五一一・五トンを記録し、これは年平均にすると六三・九トンであった。

三 亜砒焼窯からの亜砒酸の排出

1 前記一及び二に認定したとおり、土呂久鉱山の新旧の亜砒焼窯及び反射炉(以下において特段区別する必要がある場合でない限り、以上を単に「亜砒焼窯」と総称する。)は、いずれも、焙焼炉から三ないし四室程度の小型の集砒室に、自然通風によって気化した亜砒酸を導き、自然の冷却を待って個体化させ、これを重力によって沈降させるという方式であって、集砒室の煙突に格別な集塵装置を持たない原始的な構造のものであった。

〈証拠〉によれば、亜砒焼窯よる精錬で製造される亜砒酸は、焙焼によっていったん鉱石中に固体として存在するものが気化した後、冷えて再び固体化した粒子すなわちフュームであって、この大きさは、もともとは半径数ミクロン程度ないしそれ以下であり、極めて飛散しやすい性質を持っている。集砒室に重力により沈降し回収されるのは、微細なフュームが冷却される過程で互いに凝集し、数十ミクロン以上の大きな粒子に成長したものであるとの事実を認めることができる。

ところで、そもそも、亜砒焼窯の集砒室の数が三室(旧窯及び反射炉)あるいは四室(新窯)であったのは、その数が窯の構造上必然的というわけではなく、その程度の数にとどめるのが、作業効率の面からみて適当であったというに過ぎないと考えられる。実際、これらの集砒室のいずれからも、亜砒酸の回収はされていたのであるから、もし仮に最後の集砒室の先にもうひとつの集砒室を設ければ、そこにも、最後の集砒室よりは純度及び量が劣るにせよ、ある程度の亜砒酸が沈降したであろうことは推測に難くない。集砒室の数をさらに増やしても同じことがいえる。

以上から考えると、気化した亜砒酸を運ぶ集砒室内の風の速度や、室内の温度、冷却化の速度等の諸条件により程度の差こそあるけれども、右のような原始的な構造の亜砒焼窯においては、沈降に至らない程度のフュームが回収し切れずに排出されることは、その製造工程上避け難い現象であると認められる。

2 被告は、現実に亜砒焼窯の集砒室で亜砒酸が回収されていた事実からして、煙突口はもとより集砒室内も、亜砒酸の気化温度である摂氏二〇〇度よりはるかに低い温度であったことが推定できるし、旧亜砒焼窯の煙突、新亜砒焼窯の亜砒酸取出口の蓋や第三、第四集砒室の天井など木製の部分が炭化せずに支障なく使用されていた事実からみても、二〇〇度を下回る温度であったことは明らかであるところ、そのような温度の排煙中に亜砒酸が気体あるいはフュームの状態のままで存在することは、科学法則上あり得ないと主張する。

〈証拠〉によれば、亜砒酸の気化の温度が摂氏二〇〇度前後であること、亜砒焼窯の煙突や集砒室の一部に被告主張のとおり木材が使われていたことが認められる。この事実にかんがみると、被告主張のとおり排煙はおおむね二〇〇度を下回った温度であったことは推測できるけれども、このことから、排煙中には亜砒酸がいっさい存在しなかったとは認めることは、とうていできない。けだし、前述したように、亜砒酸は気化した状態から、冷却時間の経過にともない、飛散しやすい微細なフュームの状態を経て、これが凝集しあった大きな粒子のフュームに成長し、自らの重みで沈降するのであって、排煙の温度が二〇〇度以下になったとしても、沈降に至らない微細なフュームが流されて排出される可能性は否定できないからである。

また、被告は、亜砒酸の沈降効果を上げるため、新亜砒焼窯においては集砒室を大きくしてあり、窯内部における煙の通過速度は、計算上秒速二センチメートル程度の極めて遅い速度であったとも述べるが、そのような速度であれば亜砒酸がすべて集砒室内に沈降し、一切排出されないと言えるわけではないし、右の計算上の煙の速度自体も、その計算の根拠となった、〈証拠〉に示されている諸条件(鉱石の一日処理量、鉱石中の水分含有量等)が、確たる資料に基づくものではないから、ただちに採用できない。結局、右の点も亜砒酸が排出されなかったことを示す根拠には何らならないと言うべきである。

3 〈証拠〉によれば、昭和四七年に宮崎県が行った、土呂久地区の六軒の家屋の天井のはりや屋根のかやの中の塵埃の砒素含有量の調査の結果、全調査対象から砒素が検出され、しかも、新旧の亜砒焼窯に近いほど砒素の検出量が多く、顕出量と窯からの距離との間に相関関係が認められたこと、対照地区である山附地区の二軒の家屋からは全く砒素が検出されなかったことが認められる。

右の事実は、窯と家屋塵埃中の砒素とが関係あることをうかがわしめる。

4 〈証拠〉によれば、被告が独自に土呂久地区の家屋の塵埃を調査した結果、砒素のほかに多量の鉛、亜鉛、銅、鉄、硫黄などが検出された事実を認めることができる。被告はこれを根拠に、家屋塵埃中の砒素は土呂久地区の砒素を含む土壌によるものであって、亜砒酸の排煙とは無関係であると主張する。

しかしながら、右調査によっても、新旧の亜砒焼窯の近い採取地点ほど砒素の検出量も多いという関係をほぼ認めることができるのであって、やはりこの砒素は亜砒焼窯の関係があると考えざるを得ない。

もっとも、そうであるとしても、この砒素は、亜砒酸ではなくて亜砒焼の際窯付近に集められた硫砒鉄鉱や、亜砒焼によって生じた鉱滓(焼きがら)の微粉などに由来しているのではないかとの疑問(そうであるとした場合にも、また別個の原因行為が考えられるのではないかとの点は置くとして)も生ずる。しかし、右調査結果を見ると、右の各検出元素の相互の割合は採取地点ごとにまちまちである。しかも、硫砒鉄鉱や鉱滓の主成分である鉄や硫黄と砒素との割合について特に見てみると、亜砒焼窯から遠い採取地点のものに比べ、近い地点のものが砒素の割合がはるかに高い。この事実からすれば、右の調査で検出されている砒素が、排煙として排出された亜砒酸に由来するものであることを否定するのは困難である。

5 なお、原告は、以上の他にも、亜砒酸が排煙中に排出されていたことを示すとする事情を縷々主張するので、これらの点について付言する。

(一) 収率

原告は、亜砒酸精錬におけるいわゆる収率が、粗製の場合で七〇ないし九〇パーセント、精製の場合で八〇パーセントとされていることが、亜砒酸が精錬過程においてすべて回収されず、ある程度飛散するものであることを示すとする。〈証拠〉には、金属工学上の知見として、九州大学教授伊藤尚による、右のとおりの収率の数値の記載がある。しかし、〈証拠〉によれば、そもそも収率という概念は、焙焼した砒鉱ないし粗製亜砒酸中に気化せずに残る砒素分があることを示唆する数値に過ぎないと解釈するのが通常であると認められ、また、伊藤尚もこの解釈に立って〈証拠〉に原告の引用する収率の数値を記載した事実が認められるのであって、この事実に照らせば、原告右主張は採用できないと言わなければならない。

(二) スギ等の生育状態等

原告はまた、岩戸小学校教諭斉藤正健、岡山大学公衆衛生学教室及び宮崎県が、それぞれ独自に土呂久地区のスギの年輪を調査したところ、新旧亜砒焼窯の操業期間中はスギの年輪の生育が悪かったうえ、岡山大学の調査結果では、操業期間に対応する年輪中に含まれる亜砒酸含有量も多いという関係が認められたとも主張する。確かに、〈証拠〉によれば、右調査結果が出た事実が認められる。

しかしながら、右調査はいずれも、対象樹木が一本ないし三本と少数であって、これらのみで、右調査結果が亜砒酸排出の事実を推認せしめるものであると判断するのは相当でない。げんに、右の宮崎県の調査においては、上記調査結果について報告者自身が、「林木の成育は地形、土壌、気象等の環境条件により異なるとともに、病害虫の影響を受けることもあり、この調査のみによって、この地域の林木の生育を論ずることは困難である。」とコメントしている。のみならず、〈証拠〉によれば、九州大学教授宮島寛が、土呂久地区の一三本のスギと五本のアカマツを調査した結果、新旧の亜砒焼窯の操業期間と右樹木の肥大・上長生長や年輪中の砒素濃度の経年変化との間に何らかの関係があるとは認めることはできなかったとの事実が認められ、このことと対比しても、右調査結果にみるスギの生長度や年輪中の砒素濃度から、亜砒酸の排出を推定することはできないと言わなければならない。

(三) 亜砒酸降下の現認

〈証拠〉には、亡佐藤仲治が反射炉の焙焼開始後である昭和一一年ころ、旧亜砒焼窯から西南約二〇〇メートル、反射炉から西約六〇メートルの位置にある自宅の庭先に、早朝から夕刻まで新聞紙を広げておいたところ、白い粉塵がたまったのを現認した、また、原告佐藤マサ子、原告小原ミエノ、原告富高曉らが、亜砒焼窯の操業が行われていたころ、畑の野菜や牧草、社宅の窓などに白い粉がたまっているのを目撃したといった供述が記載されている。しかし、これらの供述が事実であるとしても、その白い粉塵が亜砒酸であったと認められる確たる根拠はないうえ、〈証拠〉において柳楽証人も供述しているように、亜砒酸は、人間に対する致死量がわずか〇・一グラムという劇毒であることを考えると、野山や庭先に、そのような劇毒が、積もることを現認できるほど降ったのであれば、野外に出ている人々がただちに苦痛を訴えて死亡するなど、人体に対する尋常ならざる被害が発生したと思われるが、そのような事件が発生した経緯は何ら認められないから、結局のところ、右の住民らが見た白い粉塵は、亜砒酸でなかった可能性が強いというべきである。

6 以上を要するに、5に記載した原告主張の諸事情は採用の限りでないけれども、これを除外して考えてもなお、1に記載した亜砒焼窯の構造からすれば、亜砒焼窯から亜砒酸が排出された事実を推定することができ、しかも、3、4に記載した宮崎県及び被告による家屋塵埃調査の結果は、これを明白に裏付けていると言えるのである。

四 亜砒酸ガスの排出について

第一編第二章(因果関係に関する主張)において原告らが述べたところに従い、本件においては砒素以外の鉱毒との因果関係の検討はしないから、亜砒酸ガスの排出の原因行為性については、格別検討するまでもない。

第二  その他の原因行為

一 捨石及び鉱滓の堆積場における砒素の流出

1 〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができ、右認定を左右するに足る証拠はない。

(一) 戦前戦後の鉱山の操業に伴って生じた多量の鉱石や鉱滓(焼きがら)は、昭和一一年ころまでは土呂久川に直接投棄され、その後は、一番坑手前の土呂久川川べり、その対岸にあたる佐藤操方裏手の川べり、大切坑よりやや下流側の東岸川べり、新亜砒焼窯の手前の谷間等に投棄された。それらは、長年の操業のうちに堆積して小山状となったが、昭和四六、七年ころに覆土や植栽等の防護工事が開始されるまで放置された。

(二) 捨石や鉱滓は、右各場所に野ざらしのまま積み重ねられ、堆積物の崩壊や雨水の浸入による砒素分の浸出や、砒素分を含んだ粉塵の発生を防止するための何らの措置も講じられていなかった。また、川べりに投棄されたものは、崩れて川に流出することもあった。

(三) 一般に、金属鉱業の稼業において、採掘の目的とする鉱物又はこれに随伴する微量重金属が、技術的、経済的に完全に回収されることは不可能であり、選鉱廃滓、精錬廃滓等の廃棄物に多少ながら残留するため、これらの廃棄物堆積場を放置すれば、雨水等が浸透することによりこれらの金属を溶かし出したり、集積物の表面が洗掘されて公共用水域の水質を汚濁することになるのは自明のこととされている。こうして鉱害を防止するため、昭和四八年に金属鉱業等鉱害対策特別措置法が制定されて、採掘権者らに、使用を終了し右集積場の覆土、植栽などの鉱害防止事業を義務づけるに至った。右法律の適用対象たる金属鉱物には、銅鉱、鉛鉱、水銀鉱などと共に、砒鉱も明示されている。

(四) 昭和四六年から四七年にかけて宮崎県が実施した鉱石等の砒素含有量の調査によると、土呂久地区に堆積された捨石及び鉱滓(合計七か所)から、最高で三万五七三四PPM、最低でも一三〇〇PPMの砒素が検出された。また、大切坑前貯鉱場から採取した鉱石からは二万八一二五PPMの砒素が検出された。

一方、昭和四七年に、宮崎大学農学部教授生田国雄が大切坑跡付近から採掘した鉱滓七点を分析したところ、最高のもので一一万八〇〇〇PPM、最低のものでも四万五五〇〇PPMの砒素が検出された。また、同じ機会に佐藤操方裏の堆積場近くから採取した、砒鉱との混合石は、特に砒素の検出量が高く、二九万五〇〇〇PPMという高濃度が認められた。

(五) (四)と同時期ころ、宮崎県、福岡鉱山保安監督局がそれぞれ行った捨石及び鉱滓中の砒素の溶出試験において、検査方法により程度に差異はあるものの、いずれの場合も一定割合で捨石及び鉱滓中の砒素が水に溶出することが確認された。

(六) 成書等においても、硫砒鉄鉱その他砒素を含む鉱石中の砒素が酸化し水に溶解するものであることは一般的知見とされている。実際にも、岩手県の旧松尾鉱山の坑内水が、鉱石から溶け出してくる砒素が多いので、水自体が強度の酸性を有することと共に社会問題となり、県が汚染防止対策を検討したことが報告されている。

2 以上1に認定したところによれば、新旧の亜砒焼窯の操業により、堆積場に露天のまま堆積された捨石や鉱滓から、雨水等の浸透によって砒素が溶出したり、右堆積物が土呂久川に流入することによって川水に砒素が溶出したことは明らかであると言わなければならない。また、右堆積の状態からすれば、砒素を含む捨石や鉱滓の微粉が、周囲に飛散したことも推測に難くないというべきである。

二 亜砒焼窯の放置

1 〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

(一) 昭和一六年の操業停止まで使用され続けた旧亜砒焼窯は、少なくともその一部は、その後撤去されることなく、昭和四六年に覆土工事が行われるまでそのまま放置され、その間、時の経過と共に自然に崩壊し、原型をとどめないようになりながら、雨水にさらされ続けた。

(二) 新亜砒焼窯も、昭和三七年の閉山後、そのまま放置され、昭和四六年になってようやく撤去され覆土された。通産省立地鉱害局鉱山課長は、その際の窯の内部からの亜砒酸の回収量は、約二トンであったと後に報告している。

(三) 新亜砒焼窯は、撤去されるまで崩壊せずに残っていたが、窯を覆う木造建築物の屋根は相当に破損し腐食していたし、前記第二節第一の三の2に認定したとおり、第三、第四集砒室の天井や取出口の蓋など、窯自体にも、木製の部分があった。

2 右に認められる事実からすれば、放置された新旧の亜砒焼窯の内部に残されていた(旧亜砒焼窯については、放置された窯の内部に亜砒酸が残存していたことを直接示す証拠はないが、亜砒焼窯の中の亜砒酸は粉末状を呈することからみて、窯の内部の亜砒酸を完全に回収することは困難であると推測されるから、新亜砒焼窯の場合と同様、ある程度の亜砒酸が付着したまま放置されたとみるのが自然である)亜砒酸が、雨水等の浸入により、外部に浸出した可能性を全く否定することはできないというべきである。

3 以上の、施設放置の不作為による亜砒酸流出は、捨石や鉱滓の堆積やその放置に準じ、鉱業法上の鉱害賠償責任の要件となる原因行為にあたるものと解すべきである。

三 坑内水の放流について

1 〈証拠〉によれば、土呂久鉱山は、もともと坑内水が多く、旧亜砒焼窯操業の当初は、一日三交代で三か所に設けた手押しポンプで常時坑内水を汲み上げており、昭和九年ころに大切坑が設けられてからは、排水はすべてそこに導かれたこと、新亜砒焼窯時代になると、一五、六台の動力ポンプを使用して常時排水をしたこと、これらの排水は、戦前戦後を通じ、すべてそのまま土呂久川に流され、閉山後も、長期にわたり多量の坑内水が大切坑から土呂久川へ自然流入し続けたこと、宮崎県が昭和四三年から昭和四七年にかけて、大切坑からの坑内水を分析した結果、砒素分は、〇・〇一六ないし〇・一〇八PPM検出されたこと、金属鉱業事業団が昭和五九年と六〇年に行った大切坑坑内水及びそれと同一の大切坑下の湧水群の分析結果は、〇・〇七〇ないし〇・一五〇PPMであったことが認められる。

2 被告は、本件で問題となるのは亜砒酸であり、坑内水が亜砒酸に由来するものであるとの証拠はないとする。けれども、本件被害である慢性砒素中毒症の原因物質として原告が主張しているのは、亜砒酸が代表的ではあるけれども、必ずしもこれに限定してはいないと解せられ、むしろ、被害者らの体内に摂取された、砒素中毒を発生させうるすべての砒素化合物と解すべきであるから、被告の右主張は根拠がない。

3 ところで、この坑内水中の砒素濃度は、鉱山保安法に基づく坑内水の排出基準のうち、砒素濃度に関する基準である〇・五PPMをだいぶ下回っている。しかし、そうであるからといって、被害発生との因果関係が認められる可能性がある以上、この坑内水の排出が原因行為たりうることを否定するいわれはないというべきである。なお、鉱山操業時においては、坑道の開発や採掘等による鉱床の破砕や換気のため、砒素含有鉱物の酸化溶出が促進され、より砒素濃度が高かったであろうことが推測されないではない。

第三節 原因行為による汚染

第一  大気汚染

一 土呂久の地形の閉鎖性と大気汚染

1 前記第一節記載の事実に加え、〈証拠〉によれば、土呂久地区は、祖母山、障子岳、古祖母岳など標高一六〇〇メートルから一七〇〇メートルの山なみを背後に控え、土呂久川の川岸からの標高差が四、五百メートルある山々に東西から挟まれた谷間の山村であること、山の中腹に設けられた新亜砒焼窯付近ですら、山頂との高度差は約三〇〇メートルあること、谷壁を形作る山の斜面は急峻で、しかも、土呂久川を東西から挟んで複雑に入り組んだ形状をなしていること、このため、土呂久地区は、南方の高千穂方面に谷が下がっているとはいうものの、ほぼ山に囲まれた閉鎖的な地形とみることができることが認められる。

2 右に認定した土呂久地区の地形、前記第二節第一の一の1、二の1にそれぞれ認定した新旧亜砒焼窯の位置、前記第二節第一の三の3、4に認定した家屋の塵埃の状況からすると、新旧の亜砒焼窯からその操業期間中に排出された亜砒酸が、亜砒焼窯を中心とした周辺の大気を汚染したことは明らかであり、右認定を左右するに足る証拠はない。

被告は、集砒室で沈降しない微細なフューム状の亜砒酸粒子が、煙突から排出されたとしても、それらの沈降速度は、元来極めて緩慢であるから、風に運ばれて、数百時間後はるか太平洋上でしか沈降しないはずであると主張する。

しかし、およそ窯からの排煙が、いかなる気象状態のもとでも、常にただちに上空に飛散し、風によって太平洋上に運ばれていくなどということは、およそ考え難く、むしろ右述のとおり土呂久地区のような山合いの地域では、その時々の気象条件や風の状態等により、排煙が一定時間谷間に滞留する場合があることも十分考えられるところである(〈証拠〉により土呂久地区において昭和五三年一一月及び一二月に行われた煙流実験の状況を撮影した写真であることが認められる〈証拠〉の写真に写されている煙の状態などは、そのような場合の一例であると認められる。)し、風向きによっては、排煙が地表近くに吹きつけられることもあり得るはずである。こうした場合には、やはり、亜砒酸粒子を含む煙で大気が汚染されたと言わざるを得ない。

被告が提出する、大気中の汚染物拡散シミュレーション計算及び風洞実験の結果報告である〈証拠〉、これに関する別件訴訟における守田康太郎証言の調書である〈証拠〉、大気中の汚染物質の拡散に関する研究報告である〈証拠〉によっても、右の意味での汚染の事実を否定することはできないというべきである。

3 亜砒酸ガスについては、前述した土呂久地区の地形や亜砒焼窯の位置に加え、このガスの比重が空気より重く、地表にたなびく傾向にあるとの当事者間に争いのない事実によれば、窯から排出されたこのガスも、亜砒酸と同様に土呂久地区の大気を汚染したことが明らかであると言える。

二 大気汚染のメカニズムをめぐる応酬について

ところで被告は、原告が、山谷風や循環風の影響及びいわゆる逆転層の形成によって、煙突から排出された亜砒酸及び亜砒酸ガスが谷に滞留したと主張することに対し、山谷風や循環風の概念に関する原告の理解に誤りがあるとし、また、逆転層の形成も、気象学上土呂久地区では発生する余地がないと反論する。しかしながら、右一の2に認定説示したとおり、土呂久地区の大気が亜砒酸により汚染されたという事実は、原告の主張する右の如き大気の滞留及び循環に関する理論を採用するか否かにかかわらず、土呂久の閉鎖的な地形、亜砒焼窯からの亜砒酸及び亜砒酸ガス排出の事実、家屋塵埃中の亜砒酸とみられる砒素の存在、亜砒酸ガスの地表にたなびく傾向などから十分に認定できるものである。

してみれば、右の点に関する原告の主張及びこれに対する被告の反論は、大気汚染の事実の認定を左右するものではないから、その当否を論ずるまでもない。

第二  土壌の汚染

一 土壌調査の結果

1 宮崎県調査

〈証拠〉によると、昭和四五年から四七年にかけて宮崎県が行った、土呂久地区及び周辺地域の農用土壌の砒素含有量調査結果は次のとおりであることが認められる。

すなわち、土呂久以外の地域では、上村、上寺、岩神、才原(いずれも土呂久川下流)及び黒葛原、才田、左右殿、東岸寺(土呂久川流域地区から尾根を挟んで東側ないし南側の、岩戸川流域ないしその近辺)並びに寺尾野(土呂久川流域地区からは尾根を挟んで西側)で、いずれも約二〇ないし八〇PPMであり、土呂久地区のほぼ北端に近い、旧亜砒焼窯のあった場所から北に数百メートル、高度差約一〇〇メートルほど上流の地点では一七・六PPMであった。

これに対し、旧亜砒焼窯に近い、土呂久川対岸の四か所では、それぞれ四四・二、三八九・〇、二〇七・〇、一三〇二・〇PPMが、また、同所より下流に位置する畑中、南の集落のある三か所では、それぞれ四二四・〇、三一一・〇、四一一・〇PPMが、検出された。

2 生田助教授の調査

〈証拠〉によれば、宮崎大学農学部助教授生田国雄が、昭和四七年に、前記捨石や鉱滓の堆積場のひとつがあった佐藤操方裏近くの旧畑や同人方前旧水田の四か所の土壌を調査した結果、最高の調査地点で五三〇〇PPM、最低の地点でも二六五〇PPMの砒素が検出され、また、佐藤操方から約二〇〇メートル南の耕作している水田の表層土からも、三四五PPMが検出されたとの事実を認めることができる。

3 以上のとおり、土呂久地区の亜砒焼窯周辺及びその南の集落近くが、他の周辺地域に比べて格段に砒素の量が多いことが明かである。

二 鉱化・鉱床論について

土呂久地区は元来豊かな鉱化・鉱床地帯の上にあるのであり、特に高品位の砒鉱を産出したことで有名なのであるから、同地区の土壌から高濃度の砒素が検出されたとしても、それは本来土呂久の土壌中に含まれている砒素分に過ぎないとする見方がある。

〈証拠〉によれば、土呂久地区を含む祖母傾山周辺一帯が地質学上砒素その他金属の鉱化・鉱床地帯にあること、金属鉱業事業団が昭和四七年から昭和五二年にかけて土呂久地区周辺の土壌を調査したところ、土呂久地区以外でも、その北方の小又川流域、さらにその先の土呂久からおよそ五キロメートル隔たった尾平隧道付近、土呂久川上流方面、土呂久地区の東方の黒葛原方面の岩戸川流域、南方の小芹部落などの土壌、川砂、水田の土から、おおむね一〇〇ないし二〇〇PPM台の砒素が検出され、中には、岩戸川流域の川砂で七〇〇PPM、土呂久上流の川砂で四九一PPMといった高濃度が検出された例があったこと、以上に対し土呂久地区は、大切坑跡付近の土壌が一八・二PPM、その対岸の水田が一七〇ないし二六〇PPM、やや下流の土壌が一一〇PPM、水田が一一〇ないし一二〇PPM、畑中部落の付近の土壌が八六PPMであったことが認められる。

しかし、土呂久地区及び周辺地区一帯が鉱化・鉱床地帯の上にあることが認められるとしても、そのことがただちに、土呂久地帯の汚染の事実を否定することにつながるわけではない。右の金属鉱業事業団の調査も、鉱害の調査を目的としたものではなく、一般的な鉱化・鉱床地帯の調査に過ぎない。したがって、前記宮崎県調査及び生田助教授の調査による汚染の事実の認定は、この調査結果により左右されるものではないというべきである。

三 汚染の事実

一に認定した事実に、前記第二節第一の三及び第二の一ないし三に認定した事実を合わせ考えると、戦前戦後の操業における排煙から排出された亜砒酸の降下、堆積された捨石や鉱滓及び放置された新旧の亜砒焼窯からの砒素の溶出、砒素を含んだ川水等により、土呂久地区の土壌が高濃度に汚染され、それが操業停止後も継続していた事実を認めることができる。

四 原告の主張する金属汚染について

原告は、生田助教授が、砒素以外にも高濃度の金属が存在したとしている調査報告を援用して、捨石や鉱滓の堆積場近くの土壌は高濃度の鉛、カドミウム、銅、錫、亜鉛などの金属類によって汚染されていたと主張するが、本件は砒素及び亜砒酸ガスによる被害のみに関する請求と認められるから、他の金属類による汚染の主張は、本件に関係がないものと思料する。

第三  川水の汚染

一 水質調査の結果

1 宮崎県調査

〈証拠〉によれば、宮崎県が昭和四四年から四七年にかけて、土呂久川流域その他の地点で採取した川水の分析をしたところ、鉱山より上流の、惣見鉱精錬窯跡上流五〇〇メートル地点及び同窯跡上流三〇メートル地点では、二回の調査のいずれにおいても砒素の検出がなく、同じく鉱山より上流の上寺用水取水口では、四回の調査において、全く検出されない時もあったが、最高の時で〇・〇〇四PPMの砒素が検出され、鉱山より下流にあたる東岸寺用水取水口では、八回の調査において毎回砒素が検出され、その濃度は最高の時で〇・一一二PPM、最低の時で〇・〇三一PPMであり、さらに下流の高千穂用水取水口第3では、三回の調査において毎回砒素が検出され、その濃度は最高の時で〇・〇五PPM、最低の時で〇・〇四七PPMであったことが認められる。

2 生田助教授の調査

〈証拠〉によれば、昭和四七年に前記生田助教授他の研究班が土呂久川流域等の川水の水質調査を行ったところ、鉱山より上流の上寺用水取水口と小又川ニジマス養殖場付近でそれぞれ〇・〇〇二及び〇・二二七PPMであり、鉱山事務所付近で〇・〇〇六PPM、大切坑坑内水が〇・〇九五PPM、大切坑より下流の東岸用水取水口で〇・〇八PPMの砒素が検出された。

二 汚染の有無

右に認定した事実に、前記第二節第二の三掲記の認定事実及び右第二記載の土壌汚染の事実を合わせ考えると、大切坑の坑内水の影響により、土呂久川の砒素濃度が鉱山から下流について高い数値を示したものと推測することができ、この点において大切坑坑内水の砒素が土呂久川を汚染したとみることができる。

第二章 慢性砒素中毒症

第一節 砒素の毒性と代謝

請求原因第二章第一節第一の一(砒素の化学的性質)及び同二(吸収・体内分布・代謝)の各事実は、〈証拠〉を総合すると、これを認めることができる。

第二節 慢性砒素中毒の各症状

本章第一節掲記の各証拠によれば、砒素中毒は急性・亜急性中毒と慢性中毒とに大別できると認められるところ、原告らが本件で主張する健康被害は慢性砒素中毒症であるので、以下、慢性砒素中毒によってどのような症状が生じるのかということにつき、原告らの主張する各症状の順に検討する。

第一  皮膚症状

一 砒素性皮膚症

〈証拠〉を総合すると、以下の各事実が認められる。

1 皮膚症状は、慢性砒素中毒によって生じる最も代表的な症状である。

2 慢性砒素中毒による皮膚症状の特徴は、色素沈着、色素脱失、角化症が併発することである。ただし、これらが必ずしも全部存在するとは限らない。色素沈着と色素脱失は、顔面、四肢、躯幹部の特に摩擦部位を中心に、角化症は足蹠、手掌を中心に認められる。

3 砒素性皮膚症には、曝露終了後も持続するものがあり、また、曝露終了後長期間経過して発症するいわゆる遅発性のものもある。

二 被告の反論について

1 前項3の点につき、被告は、曝露終了後は時間の経過とともに皮膚症状は消退するのであり、それが存続したり、まして後になって発現することはあり得ない旨主張する。〈証拠〉は、右主張に沿うものであるが、前項掲記の各証拠によれば、砒素性皮膚症の持続・遅発については症例報告や成書の指摘が存することが認められるのであり、彼此対比すると、前項3の認定を排斥するまでには到底至らない。

2 なお、被告は、皮膚症状に限らず、他の慢性砒素中毒の諸症状についても、曝露終了後の持続又は遅発を否定し、その根拠として、〈1〉砒素が迅速に体外に排泄されること、〈2〉毒物についての量反応関係の法則が慢性砒素中毒症にも適用されること、〈3〉生体に備わる自然治癒力(ホメオスタシス)によって曝露終了後は回復に向かうことを挙げているので、ここで併せて検討する。

(一) 右〈1〉については、これに沿う証拠として、〈証拠〉が存するが、他方、本章第一節掲記の各証拠中には、「砒素の排泄は緩慢である」旨を指摘する文献もいくつか存する。

(二) 右〈2〉については、これに沿う証拠として、〈証拠〉が存するが、他方、〈証拠〉は、金属の吸収・排泄・蓄積及び閾値については個体差があり、砒素に対する感受性の高い者もいるので、中毒学の一般法則を個体差を捨象して適用することはできない旨を指摘し、〈証拠〉にも同旨の指摘がある。

(三) 右〈3〉については、これに沿う証拠として、〈証拠〉が存するが、他方、〈証拠〉には、曝露後の生体の修復力は、障害の程度、臓器組織による回復力の差、その他年令等により左右され、回復し得る場合もあるし、逆に回復し得ずに慢性中毒の症状が持続する場合もあるとの指摘がなされている。

以上の(一)ないし(三)に加えて、本章第一節に認定したとおり、砒素の毒性の生体における機序には未解明の点が多いこと、砒素性皮膚症の持続・遅発についての症例報告(前記1)のほか、後述のとおり、他の慢性砒素中毒症の諸症状についても持続・遅発の症例報告が存することを総合考慮すると、被告が〈1〉ないし〈3〉を根拠に慢性砒素中毒の諸症状について曝露終了後の持続又は遅発を否定することは、未だ十分な説得力がないというべきである。

3 右2の議論に関連して、被告は、曝露終了後も症状が持続するのは、曝露当時に臓器に器質的病変が生じそれが後遺症の形で存続した場合に限る旨主張する。しかし、右2に述べたように、慢性砒素中毒の症状には遅発性(すなわち、曝露当時は何ら病変がなく、後になって症状が初発する)のものが認められること、及び、後述するように、砒素性皮膚症が進行悪性化してボーエン病・真皮癌が発症したり、また、慢性気管支炎が遷延増悪して続発症に進展したりするというように、慢性砒素中毒症の症状には進行性のものも認められることに照らすと、被告の右主張もこれまた支持することができない。

三 ボーエン病

〈証拠〉を総合すると、砒素性皮膚症が悪化してボーエン病を発症することがあること、及び、ボーエン病は表皮内癌であるが、後に真皮内へ浸潤して有棘細胞癌に進展することがあることをそれぞれ認めることができる。〈証拠〉には、砒素中毒によるボーエン病の発症は認めつつも、ボーエン病は表皮内に止まり他組織への浸潤性がないとの見解が示されているが、前記各証拠と対比して支持できず、前記認定を左右するに足りない。

第二  慢性呼吸器障害

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により慢性呼吸器障害が生じること、慢性気管支炎は慢性砒素中毒症の主徴の一つであること、慢性砒素中毒による慢性呼吸器障害は、曝露終了後も遷延・進行し、反復性気管支肺炎や気管支拡張症などの続発症に進展することもあることが、それぞれ認められる。

被告は、曝露終了後呼吸器障害は回復すると主張し、〈証拠〉にはこれに沿う知見が示されているが、右各証拠と対比すると支持できず、右認定を左右するに足りない。また、被告は、曝露終了後も呼吸器症状が持続する場合は器質的病変(後遺症)がある場合に限る旨主張するが、前記第一の二の3で述べたように同主張を支持することはできない。

第三  眼、鼻、口の粘膜障害

一 眼粘膜の障害

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により、結膜炎、角膜炎等の眼粘膜障害を生じることが認められる。

二 鼻粘膜の障害(嗅覚障害)

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により鼻粘膜が障害され、その結果慢性鼻炎、副鼻腔炎、鼻中隔の萎縮・瘢痕・穿孔が生じること、そして、鼻粘膜障害の二次的障害として、嗅覚の低下・脱失が生じることがそれぞれ認められる。

三 口腔粘膜の障害(歯の障害)

〈証拠〉を総合すると、砒素が口腔粘膜を障害し、歯ぐきに炎症を来すことが成書に指摘されていること、慢性砒素中毒により歯の欠損及びその支持組織の疾患が生じた症例の報告(ドイツブドウ園従業者事件、森永砒素ミルク事件)が存すること、及び、土呂久住民についても同様の報告がなされていることが認められ、以上によれば、慢性砒素中毒により口腔粘膜のみならず歯の障害も生じることが認められる。

第四  胃腸障害

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒が慢性の胃腸障害をもたらすことが認められる。なお、被告は、曝露終了後は消化管粘膜に後遺症が残っていない限り胃腸障害は速やかに回復する旨主張し、これに沿う〈証拠〉が存するが、前記各証拠と対比し、また、本節第一の二で述べたところに照らしても、被告の右主張は支持できない。

第五  心循環障害

一 〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により末梢循環障害、末梢血管系における血管内膜炎・壊疽、動脈硬化性高血圧、心臓・脳血管病、心筋障害、心電図異常等の心循環障害が生じることにつき、症例報告が多数存することが認められる。

二 被告は、右報告のうちの代表例ともいうべき台湾の烏脚病事件、ドイツのブドウ園従業者事件、チリのアントファガスタ事件について、各事件に特有の砒素との共存因子(交絡因子)の存在が明らかにされていることを理由に、砒素単独では末梢循環障害は起こらない旨主張する。しかしながら、右被告主張によっても、右各事件で砒素が末梢循環障害を起こす原因物質であったことに異論があるというのではなく、また、本件につき特定の交絡因子をあげてその不存在を説くというわけでもないのであるから、畢竟同主張は法律的には意味のない議論であるといわざるを得ない。

第六  神経系の障害

一 末梢神経障害(多発性神経炎)

〈証拠〉を総合すると、次の各事実を認めることができる。

1 慢性砒素中毒により末梢神経がしばしば障害される。

2 砒素性の末梢神経障害は、一般的に多発性神経炎の型をとり、四肢の知覚異常、じんじん感、しびれ感、疼痛、筋力低下等の症状を呈し、重症度の場合は筋萎縮を伴い歩行困難となる。四肢末端より起こる左右対称性の「手袋靴下型(グローブ・ストッキング型)」の異常知覚・知覚低下が特徴的であるとされるが、非典型的に片側性の場合もある。多発性神経炎は、慢性砒素中毒症の主徴の一つとされる。

3 多発性神経炎は、砒素曝露の終了後も症状が遷延することがあるし、また、曝露終了後期間を経て症状が出現する遅発性のものもある。

二 視力、視野障害(白内障)

1 〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により視力や視野の障害を来した症例の報告(ドイツブドウ園従業者事件、森永砒素ミルク事件、銅製錬所亜砒酸製造作業者事件)が存すること、土呂久住民についても同様の報告がなされていることが認められ、以上によれば慢性砒素中毒により視力・視野障害が生じることが認められる。なお、被告は、中等度以上の多発性神経炎が併発している場合に限って求心性視野狭窄等の視神経障害が生じ得る旨主張するが、前記各報告例にかんがみると、多発性神経炎を伴わない症例の存在も認められ、右主張は支持できない。

2 次に、本件では、原告らにおいて視力障害の原因として白内障を主張する者が多数あるので、便宜上ここで白内障について検討する。

(一) 〈証拠〉によれば、〈1〉宮崎県が昭和四六年に実施した疫学調査で、土呂久地区は山附地区と比較して白内障が女について有意に高いとの結論を得たこと、〈2〉堀田らが昭和五〇年に土呂久住民について臨床的調査を行ったところ、九一名(年令構成的にはその九五パーセントが四〇歳以上の中・高年層)のうち二七名に白内障が認められたこと、〈3〉宮崎県が土呂久の認定患者について昭和五一年から昭和五三年までに実施した検診では、白内障が五八・七パーセントも高率の所見率を示し、有所見者の大部分(男八八・九パーセント、女七四・一パーセント)が六〇歳以上であったことがそれぞれ認められる。

(二) 〈証拠〉によると、白内障は眼粘膜又は視神経の疾患ではなく、眼の水晶体が濁るもので、一般に老化現象の一つであると理解されていることが認められ、右(一)の各調査結果も土呂久地区の高齢者に老人性白内障が発症していることを示すものと理解できる。

(三) ところで、慢性砒素中毒と白内障との関係について、〈証拠〉には、砒素が老化を促進しそれに伴い白内障が発現するとして、白内障の砒素起因性を肯定する旨の各供述部分が存する。

(四) 他方、〈証拠〉には、砒素→老化促進→白内障という右説明が医学的に根拠がないと批判する供述部分が存し、また、柳楽証言及び堀田証言によっても砒素中毒により白内障が生じたというような従前の文献・報告は見当たらないことが認められる。さらに、前記(一)の各調査によっても、土呂久地区において白内障が加齢要因を超えて有意に多発しているとまで認めるには足りないといえる。

(五) 以上の検討結果を総合すると、白内障については、これを慢性砒素中毒の症状であると認めるには、証拠が足りないというべきである。

三 聴力障害

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により聴力を障害されることがあり、その場合、感音性難聴が発生することが認められる。

四 自律神経障害

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により自律神経障害を生じることがあり、頭痛、目まい、振戦、性欲の喪失、発汗過多、四肢寒冷などの症状が起こることが認められる。

五 中枢神経障害

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により中枢神経障害を生じることがあり、混迷、せん妄、全身痙攣、神経衰弱などがみられることが認められる。

第七  肝障害

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により肝障害が生じ、肝機能異常、肝腫大、肝硬変などが起こることが認められる。なお、被告は、肝障害についても交絡因子なしに砒素単独では発生しない旨主張するが、その主張が法律上意味を持たないことは本節第五の二で述べたとおりである。

第八  造血器障害(貧血)

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により造血器障害(貧血)が生じることがあり、この場合、赤血球、顆粒白血球、血小板の減少が並行して発生すること、貧血は鉄欠乏性型のものではなく、再生不良型の像を示すものが多いことが認められる。

第九  癌

一 肺癌

〈証拠〉を総合すると、慢性砒素中毒により肺癌が発生することが認められる。なお、被告は、肺癌が起こるのは、職業性曝露の場合に限ると主張し、〈証拠〉にはこれに沿う指摘の記載があるが、前記各証拠と対比すると、肺癌が職業性曝露の場合に比較的高率に発生することは間違いないものの、その他の曝露の場合の発生が全く否定されるとまではいえず、右主張は支持できない。

二 胃癌

原告らの中には、肺癌のほか、砒素に起因する胃癌あるいは前立腺癌の発症を主張する者がいるところ、前立腺癌については、別冊個別主張・認定綴第一九の亡甲斐国頼の項で後述するとおり、その砒素起因性を論じるまでもないので、ここでは、胃癌の砒素起因性につき検討するに、本件全証拠によっても、砒素中毒により胃癌が発生する旨を明言する文献、あるいは、砒素起因で胃癌が高率に発症したことを確認するに足りる報告例は見当たらず、砒素と胃癌との関連性を認めるには足りない。

第三節 土呂久地区における慢性砒素中毒症の公害認定

一 請求原因第二章第一節第二の二の1(土呂久地区についての公害地域指定)及び同2(慢性砒素中毒症認定業務の開始)の各事実は当時者間で争いがない。

二 ところで、〈証拠〉を総合すると、行政認定の基準のうち、曝露要件を除くその余の症状の要件については、数次の改定がなされ、当初は、〈1〉皮膚症状、〈2〉鼻粘膜瘢痕・鼻中隔穿孔のみが掲記されていたが、後に、〈3〉多発性神経炎、更に遅れて、〈4〉慢性気管支炎が加えられたことが認められる。

前記第二節で認定したように、これらの症状は、なかんずく〈1〉、〈3〉及び〈4〉の各症状はいずれも慢性砒素中毒症の主要症状ないし特徴的な症状といえるものであり、これに行政認定の要件を限定することの当否はさておき、これらに該当すれば慢性砒素中毒症と診断することは、ほとんど問題がないと考えられる。しかして、本件原告患者らは、別冊個別主張・認定綴に後述するとおり、いずれも、慢性砒素中毒症の行政認定を受けたものである。

三 被告は、右行政認定が救済目的から緩やかに判断する方向で運用されている旨の主張をするようであるが、〈証拠〉を総合すると、右行政認定は、広範な検査を実施したうえ、専門医において厳格・慎重な判断を行っていることが窺われ、被告の右主張は当たらない。

第三章  責任

第一節  被告の責任

一 争いのない事実

請求原因第一章第一節第二の事実(土呂久鉱山の鉱業権者の推移)及び同第三の二の事実(被告による土呂久鉱山の鉱業権の取得とその放棄)は、当時者間で争いがない。

二 被告の鉱業法上の責任

旧鉱業法(明治三八年法律第四五号)の鉱害賠償義務に関する規定は、昭和一四年法律第二三号(昭和一五年一月一日施行。以下「旧鉱業法改正法」又は「改正法」という。)によって新設され、それが、現行鉱業法(昭和二五年法律第二八九号、昭和二六年一月三一日施行)に引き継がれたものである。前項の争いのない各事実に新旧各鉱業法の鉱害賠償義務に関する規定を照らし合わせてみると、本件損害についての被告の責任の根拠法条は、次のとおりとなる。

まず、被告が鉱業権を取得した昭和四二年四月一九日以降それを放棄した昭和四八年六月二二日までの間に発生した損害については、鉱業法一〇九条一項前段の損害発生時の鉱業権者として、被告は責任を負う。次に、被告が鉱業権を放棄した昭和四八年六月二二日以降に発生した損害については、同法一〇九条一項後段の鉱業権消滅時の鉱業権者として、被告は責任を負う。さらに、被告が鉱業権を取得した昭和四二年四月一九日以前(現行鉱業法の施行前、さらには、旧鉱業法改正法の施行前を含む)に発生した損害については、鉱業法一〇九条三項の鉱業権の譲受人として、被告は責任を負う。

右の鉱業法一〇九条一項、三項の適用については、被告において種々争うところであるので、以下節を改めて考察する。

第二節  被告の主張に対する判断

被告は、〈1〉鉱業法一〇九条一項、三項により責任を負う鉱業権者は、当該鉱業権に基づき鉱業を実施した者に限られるのであり、被告のごとき稼業なき鉱業権者は責任を負わない、〈2〉被告が鉱業法一〇九条三項に基づき鉱業権譲受人として負うとされる責任は、立法経過に照らすと、旧鉱業法改正法施行前に生じた損害には及ばない、〈3〉昭和一二年一月二八日以前の亜砒酸製造は非鉱業権者により行われていたものであるから、それによる損害については鉱業法一〇九条は適用されない、〈4〉原告佐藤直ら一一人の者の健康被害は、鉱業従事中の砒素曝露によって生じた業務上の疾病、健康障害であるから、鉱業法一一六条により同法一〇九条の適用は排除される、とそれぞれ主張するので、以下順に検討する。

第一 稼業なき鉱業権者の責任

一 鉱業法一〇九条一項及び三項の意義

1 鉱業法一〇九条一項前段は、損害発生時の鉱業権者に賠償の責任を負わせている。これは、鉱業権が転々譲渡される場合に、発生した損害がどの鉱業権者のいかなる行為に起因するかを確定・立証することが甚だ困難であるうえに、仮にその確定・立証が可能であったとしても、既に鉱業権を譲渡した原因者に責任を追及しても賠償の実効を収められない虞があることを慮り、被害者の保護を図る目的から、鉱害の原因行為や原因者の根底にある鉱業権そのものに着目し、鉱害賠償責任を鉱業権自体に付属する責任として捉えたものと、理解することができる。このように、鉱業法一〇九条一項前段は、鉱害賠償責任を、原因となる行為の責任(原因主義)ではなく、鉱業権を有することによる責任(所有者主義)として、法制化したものということができるのであり、したがって、同規定による責任は、鉱業権者であること自体によって生じ、その鉱業権者が鉱業を実施稼業しているか否かは問わないものというべきである。

そして、鉱業法一〇九条一項後段は、損害発生時に鉱業権が消滅している場合について、被害者保護の観点から、同条項前段の所有者主義を押し及ぼし、損害発生時点に一番近い最後の鉱業権者に責任を負わせることにしたと、理解することができる。したがって、右後段の規定による責任についても、鉱業の実施稼業の有無は関係がないというべきである。

2 次に、鉱業法一〇九条三項は、損害発生後に鉱業権を譲り受けた者につき、賠償責任を負わせている。右の場合、同条一項前段からすると、損害発生時の鉱業権者が賠償責任を負うべきことが明らかであり、鉱害賠償責任における所有者主義と言っても、前の所有者に帰属すべき責任を後の所有者が引き継ぐことまで当然に含むとは解し難い。それにもかかわらず、鉱業権譲受人に賠償責任を負わせるのは、これにより賠償の実効を収め、もって被害者の保護を徹底しようという目的から出たものといえるのであり、そうすると、鉱業法一〇九条三項の場合も、鉱業権譲受人が鉱業を実施稼業しているか否かは問題にならないというべきである。

3 鉱業法一〇九条一項及び三項の条文を見ても、鉱業の実施稼業を責任要件として掲げる文言はなく、したがって、前記1及び2のように鉱業権者の賠償責任が鉱業の実施稼業の有無とは関係がないと解することは、右各条項の文理にも適うことである。

4 また、〈証拠〉によれば、現行鉱業法一〇九条の前身である旧鉱業法改正法七四条の二について、立法者が前記1及び2に述べたのと同旨の考え(鉱害賠償責任を鉱業権に付属する責任として捉えること、鉱業権譲受人の責任を認めて賠償の実効を収めること)を抱いていたことが認められ、この点も、鉱業権者の賠償責任につき鉱業の実施稼業の有無を問わないとする前記解釈を支持する有力な根拠たり得るものである。

もっとも、〈証拠〉によれば、旧鉱業法改正の際の帝国議会での質疑において、稼業実績のない最後の鉱業権者は賠償責任を負わない旨の答弁が政府委員からなされたことが認められ、これを根拠に、被告は、稼業なき鉱業権譲受人の責任を否定するのが立法者の考え方であったと主張する。しかしながら、右答弁は、〈証拠〉によりそれに至る経緯を見ると、鉱業権が一旦放棄され同一地域に新たに別人の鉱業権が設定されたものの同人が稼業しないという特殊な場合についてなされたもので、鉱業権の承継があった場合の鉱業権譲受人の責任を論じたものではないと認められるから、被告の右主張は理由がないというべきである。

5 鉱業法が鉱業権自体に着目して鉱害賠償責任を所有者責任として定めたことは、前述のとおりであるから、盗掘などのように鉱業権とは全く無縁の行為により損害が発生した場合には、鉱業権者が鉱業法上の責任を負うことはないと解すべきである。そうすると、盗掘などの場合に鉱業権者が責任を負わないことをもって、鉱業法上の賠償責任が鉱業の実施稼業を要することの一証左であるとする被告の主張は、理由がないというべきである。

6 なお、鉱業法六二条一項は鉱業権者に対し事業着手義務を課しているが、同義務は、鉱業権者の鉱害賠償責任とは別個の義務を定めたものであり、鉱業の実施稼業が賠償責任の要件となるか否かの議論とは無関係というべきである。

二 財産権保障との関連

1 鉱業法上の賠償責任につき、前述のような解釈をとると、鉱害の原因に関係のない者が責任を負わされる結果となることもあり得、憲法二九条による財産権の保障に反することになるか否かが一応問題となるが、以下の理由から、この問題は消極に解すべきである。

2 まず、鉱業法一〇九条三項の鉱業権譲受人の責任は、明らかに他人の行為による責任を規定したものといえるが、同時に同法一一〇条二項は、鉱業権譲受人が賠償義務を履行したときは損害発生時の鉱業権者に対し償還請求ができる旨を定めて、救済策を講じているのであり、また、そもそも、鉱業権を譲り受けようとする者は、従前の損害についての賠償責任を負担することになる危険を考慮して、譲受けをするか否かを選択、決定することもできるし、あるいは、その危険を譲受けの対価決定に反映することもできるのである。以上の事情と、鉱害の被害者を保護するという鉱業法一〇九条三項の立法目的とを総合考慮すると、同条項が財産権保障に反する規定であるといえないことは、明らかである。

3 次に、鉱業法一〇九条一項により責任を負う損害発生時(又は鉱業権消滅時)の鉱業権者についても、従前の鉱業権者の原因行為による責任を負担することがあり得るが、その場合にも、賠償義務を履行した損害発生時(又は鉱業権消滅時)の鉱業権者は、原因行為者たる前鉱業権者に対し求償権を行使できると解すべきである。また、前記2で述べたのと同様に、鉱業権を譲り受けようとする者は、未発の損害の賠償責任を負うことになるかも知れない危険性を考慮して、譲受けをするか否かを選択、決定することもできるし、あるいは、その危険性を譲受けの対価決定に反映することもできる。以上の事情と、鉱害賠償責任につき所有者主義をとって被害者の保護を図ろうとした鉱業法一〇九条一項の立法目的とを総合考慮すると、同条項が財産権保障に反する規定であるとは、到底いうことができない。

三 鉱害賠償責任の原因行為と不作為について

1 鉱業法による鉱害賠償責任は、〈1〉鉱物の掘採のための土地の掘削、〈2〉坑水若しくは廃水の放流、〈3〉捨石若しくは鉱滓の堆積、〈4〉鉱煙の排出の四種の行為を原因として生じた損害に限って認められる。これらの原因行為は、鉱業の実施稼業に伴う作業として作為の形態でなされることが多いと考えられるが、〈2〉及び〈3〉の原因行為については、坑水等が流出するままに放置するとか、捨石等を堆積したまま放置するとかいうように、不作為の形態によるものも含まれると解される。このように解するのが、鉱業法一〇九条一項の文理上自然であるし、実質的にも、不作為による損害を賠償責任に含めるのが、被害者の救済という鉱害賠償規定の立法目的の実現に資することになると考えられるからである。

2 不作為の形態による前記〈2〉及び〈3〉の原因行為は、必ずしも鉱業の実施稼業に伴うものばかりとは限らず、稼業なき鉱業権者も行い得るものである。前記第一章第二節「鉱害の原因」においても、鉱山休止中及び廃止後における捨石等の堆積の放置及び坑水等の流出の放置を損害発生の原因行為として認定したところであるが、この点は、稼業なき鉱業権者が鉱害賠償責任を負うことの一つの根拠とすることができる。

四 小括

以上によれば、鉱業法一〇九条一項、三項に基づく鉱業権者の賠償責任は鉱業の実施稼業の有無を問わないと解することができるのであり、そうすると、同法条により責任を負う鉱業権者は当該鉱業権に基づき鉱業を実施した者に限られ被告のごとき稼業なき鉱業権者は責任を負わないとする被告の主張は、その前提を欠き失当であるといわなければならない。

第二 旧鉱業法改正法施行前に生じた損害についての鉱業権譲受人の責任

一 旧鉱業法改正法附則の意義

1 旧鉱業法改正法附則は、その三項で、改正法施行前に生じた損害で未賠償のものについての被害者の損害賠償請求権を保障し、その四項で、右の場合に改正法七四条の二第一項の規定が適用されることを定めている。改正法附則の右両項により、同法施行前に生じた損害についても改正法七四条の二第一項の規定が遡及的に適用され、損害発生当時の鉱業権者(鉱業権消滅のときは消滅時の鉱業権者)が賠償責任を負うことが明定されたといえる。

2 ところが、改正法附則第四項は、改正法七四条の二第一項、第二項及び第四項を掲げながら、同第三項を掲げていない。これは、改正法七四条の二第三項の損害発生後の鉱業権譲受人の賠償責任の規定が、同第一項等の規定のように従来の慣習を法制化したに止まるのとは異なり、改正法により新たに創設されたものであったため、これを既往の損害に遡って適用することが不適当であると考えられた結果であると理解できる。そうすると、改正法附則は、同法施行前に生じた損害につき、同法七四条の二第三項の規定を不遡及とし、損害発生後の鉱業権譲受人の責任を否定しているものと解することができる。〈証拠〉によれば、改正法の立法者も同旨の考えを抱いていたことが窺われ、この点は右の解釈を支える一つの根拠たり得る。

二 現行鉱業法施行法三五条の意義

1 現行鉱業法施行法(以下「施行法」ともいう。)三五条四項は、新法一〇九条三項の規定が施行法三五条二項の規定により賠償責任を有する旧鉱業法による鉱業権者の鉱業権が譲り渡された場合にも適用されることを定めている。右の「施行法三五条二項の規定により賠償責任を有する旧鉱業法による鉱業権者」には、改正法七四条の二の規定により責任を有する旧鉱業法による鉱業権者が含まれるものであることは明らかである。

改正法附則三項及び四項により改正法七四条の二第一項の規定の適用を受けて同法施行前に生じた損害につき責任を負うとされる鉱業権者は、前記一1に述べたとおり、同規定の遡及適用を受けて責任を負うことになるのであるから、右の「改正法七四条の二の規定により責任を有する旧鉱業法による鉱業権者」に当たるといわなければならない。

そうすると、改正法施行前に生じた損害については、損害発生当時の鉱業権者が責任を負うとともに、その鉱業権を現行鉱業法施行後に譲り受けた者は、施行法三五条四項により現行鉱業法一〇九条三項に基づき損害発生当時の鉱業権者と連帯して責任を負うことになるというべきである。

2 前記一2に述べたように、改正法施行前に生じた損害につき、改正法附則は鉱業権譲受人の責任を否定していたのであるが、現行鉱業法施行法三五条四項が現行鉱業法施行後の鉱業権譲受人につき責任を肯定する態度に変じたのは、もともと改正法七四条の二第三項の鉱業権譲受人の責任規定の背後にあった被害者の保護を図るという立法趣旨をさらに押し進めようとの意図から出たものと考えられるのであり、この点で立法政策の変更があったと理解することができる。

確かに被告主張のごとく、改正法下での鉱業権譲受人が中間に存する場合には、現行鉱業法施行後の鉱業権譲受人は、右中間譲受人の負担しない責任を負担する結果となるが、鉱業法一〇九条三項により鉱業権譲受人が責任を連帯する相手方は、中間譲受人ではなく「損害発生時の鉱業権者」であると解されるうえ、右の結果は前記立法政策の変更に伴い必然的に生じるものであることに思いを致すと、それをもって「矛盾」又は「背理」と非難することは失当といわなければならない。

3 なお、鉱業権の譲受けにより改正法施行前の損害につき責任を負担することになる危険については、そもそも譲受けをするか否かを選択、決定する際に検討し得ることであるし、また、危険を譲受けの対価決定に反映することも可能であるうえ、危険が現実化した場合には損害発生時の鉱業権者に対する求償権行使の方途も残されているのであるから、施行法三五条四項の規定を不当な財産権の侵害であるとする主張も当たらないというべきである。

第三 昭和一二年以前の亜砒酸製造と被告の責任

一 昭和一二年以前の亜砒酸製造の実情

1 まず、亜砒酸製造の鉱区及び鉱業権者を検討するに、当時者間で争いがない請求原因第一章第一節第二の事実(土呂久鉱山の鉱業権者の推移)に、〈証拠〉を総合すると、昭和一二年一月二八日に岩戸鉱山株式会社が採登第六五号鉱区及び同八〇号鉱区の両鉱業権を取得する前の土呂久鉱山において、大正九年以降亜砒酸製造はほとんど採登第八〇号鉱区で行われていたこと、これに対応する鉱業権者は、大正九年から昭和七年までが岩戸村在住の竹内令サク、同年から翌昭和八年までが岩戸村在住の竹内勲、昭和九年以降が中島門吉であったことが、それぞれ認められ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

2 次いで、亜砒酸製造の作業形態について検討するに、〈証拠〉を総合すると、大正九年から大正一四年ころまでは宮城正一が、大正一五年ころから昭和九年ころまでは川田平三郎が土呂久鉱山において亜砒酸製造を事業として経営していたこと、右川田らは、土呂久地区及び近隣の住民を従業員として雇用し、採掘、選鉱及び製錬の各作業に従事させていたこと、右採掘から製錬までの各作業は一連の工程として統一的に運営されていたことが、それぞれ認められ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

3 ところで、右1に認定の採登第八〇号鉱区の鉱業権者と右2に認定の川田らによる亜砒酸製造事業との関係について検討するに、川田らが鉱業権者に雇用されて亜砒酸製造事業を行っていたという原告主張については、これを認めるに足りる証拠がない。しかしながら、川田らが十数年にわたり土呂久地区において採掘から製錬までの統一的な亜砒酸製造事業を行っていたこと、鉱業権者である竹内令サク及び竹内勲は土呂久鉱山に近い岩戸村に在住していたことに照らすと、川田らが鉱業権者に無断で勝手に採掘し製錬を行っていたとは到底考えられないうえ、〈証拠〉(高千穂町史)中には「昭和七年竹内勲氏が家をついで鉱主となったが、事業を豊後の川田平三郎にゆずって、竹内氏は歩合をとった。」との記載があることを総合してみると、川田らは竹内令サク及び竹内勲との間の契約により鉱業権の賃借または鉱業稼業の請負をし、それに基づき亜砒酸製造事業を自営していたと推認することができる。

そうすると、川田らが鉱業権者から鉱石を買って製錬を行う独立の買鉱製錬業者であった旨、あるいは、その亜砒酸製造が鉱業権者による鉱業の実施とは無関係であった旨の被告主張は、失当といわなければならない。

4 なお、昭和九年に中島門吉が鉱業権者となった後の亜砒酸製造の作業形態について検討するに、〈証拠〉によれば、右中島への鉱業権者の交替の際に従前より亜砒酸製造を行っていた者から引き続き亜砒酸製造を行わせて欲しいとの要望があったため、採掘は中島において行い製錬を右の者に請け負わせることにした事実が認められ、そうすると、昭和九年以降は、川田またはその後継者において、従前のような採掘から製錬までの全事業についての鉱業権の賃借又は稼業請負ということはなかったが、なお鉱業の一部である製錬事業を契約により請け負って亜砒酸製造を続けていたと推認することができる。

さらに、前記第一章第二節第一の一(戦前における亜砒酸の製造)に認定の事実に〈証拠〉を総合すると、中島自らが反射炉を設置して亜砒酸製造を行っていたことが認められ、これは、まさに鉱業権者による鉱業の実施そのものであったということができる。

二 斤先掘者の行為と鉱業権者の責任

1 前項3に認定の川田らと竹内令サク及び竹内勲との間の鉱業権の賃貸借又は鉱業稼業の請負の契約は、鉱業界で実際上往々行われていたいわゆる斤先掘契約、すなわち、鉱業権者自らは鉱業を実施せず一定の対価のもとに第三者(斤先掘者)にその全部又は一部を行わせる契約に該当すると、目することができる。そして、前項4に認定の川田又はその後継者と中島門吉との間の鉱業の一部である製錬事業の請負契約も、前項3より規模は縮小しているものの、同じく斤先掘契約であると、目することができる。

2 斤先掘契約の効力については、実質的に鉱業権者以外の第三者に鉱業を管理させることに帰し、鉱業経営の経済的重要性とその危険性とに鑑みると無効と解するほかない(最判昭和二七年一二月二六日民集六巻一二号一三〇二頁)。しかしながら、契約の無効にもかかわらず、対外関係においては、斤先掘者の行為により他人に損害を与えたときは、鉱業権者は、民事上の責任を免れず(大判大正二年四月二日民録一九輯一九三頁)、この理は、鉱業法上の賠償責任にも同様に当てはまると解すべきである。

3 そうすると、前項2、4に認定の川田らの亜砒酸製造によって生じた鉱害につき、鉱業権者は責任を免れず、したがって、被告の主張は失当というべきである。

第四 鉱業法一一六条の適用について

前記第一章(鉱害)で述べたところに別冊個別主張・認定綴で認定するところを合わせると、被告主張の原告佐藤直ら一一名の者は、いずれも、土呂久鉱山に勤務して作業に従事し、その過程で鉱山の操業により排出された砒素及び亜硫酸ガスに曝露するとともに、同時に他方では、土呂久地区に居住し、あるいは、近隣地区から鉱山に通勤して土呂久地区に一時滞在し、それらの生活過程で砒素や亜硫酸ガスに曝露したものであること、各健康被害は、いずれも、前者の業務上曝露と後者の業務外曝露とが重畳的に競合した結果もたらされ、しかも、そのどちらによる被害であるかが識別できないほどに渾然一体となっていることが、それぞれ認められる。

ところで、鉱業法一一六条は、鉱業に従事する者の業務上の負傷、疾病等につき鉱業法の賠償規定の適用がない旨を定めているところ、右に認定のように、鉱業従事者の受けた健康被害につき、業務上及び業務外の各成因が競合して作用し被害が渾然一体となってそのどちらによるのかが識別不能な場合には、同条の適用がないと解するのが相当であり、被害の全体について鉱業法上の賠償責任が及ぶと解すべきものである。

そうすると、前記一一名の者につき、鉱業法一一六条により同法の賠償規定の適用が排除されるとする被告の主張は、理由がないというべきである。

第三節  結論

以上の次第であるから、鉱業法の解釈・適用に関する被告の主張はいずれも理由がなく、結論として、被告は本件損害につき鉱業法一〇九条一項、三項による責任を免れない。そうすると、請求原因第三章第二節(被告の加害責任)につき判断するまでもなく、被告は、本件損害につきこれを賠償すべき義務があるといわなければならない。

第四章  抗弁及び再抗弁について

第一節  和解

第一 当時者間に争いのない事実

亡甲斐国頼、原告佐藤千代三及び同佐藤タモ(以下「上記三名」ともいう。)について、知事が被告と右三名との和解斡旋をなし、これに基づいて、昭和四九年一二月二七日亡甲斐国頼に対し金二四〇万円、昭和五〇年五月一日原告佐藤千代三に対し金二五〇万円、同佐藤タモに対し金二三〇万円がそれぞれ被告から支払われたこと及び本件和解契約の内容とされている斡旋案には、〈1〉 補償は、砒素に起因する土呂久鉱山に係る健康被害に対するものであること、〈2〉 補償は、この斡旋受諾前及びその後の一切の損害、すなわち、医療費、逸失利益及び慰謝料等を含む損害に係るものであること、甲(被害者)は、補償金を受領した後は、乙(被告)に対して、名目のいかんを問わず、将来にわたり一切の請求をしないものとする、との二条項が存在すること、以上の事実は当時者間に争いがない。

第二 そこで、被告は、右斡旋和解により右三名の本件損害賠償請求権は一切消滅したと主張するので検討するに、後記認定のように、知事の斡旋による和解は、昭和四七年宮崎県によって土呂久鉱山に係る慢性砒素中毒症と認定された者が最初に出現した後に行われた第一次斡旋(昭和四七年一二月二八日)を皮切りとし、以来、第二次斡旋(昭和四九年二月二日)、第三次斡旋(昭和四九年一二月二七日)、第四次斡旋(昭和五〇年五月一日)及び第五次斡旋(昭和五一年一〇月一六日)に至るまで一連の経過を有するものであって、亡甲斐国頼については第三次の、原告佐藤千代三及び同佐藤タモについては第四次の各斡旋を受けたものであるが、第三、四次における和解の成立・効力の有無、その範囲を判断するためには、斡旋全体の経過を把握する必要があると考えられるので、以下斡旋順に検討することとする。

第三 知事が斡旋着手に至るまでの経緯〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

一 昭和四六年一一月地元岩戸小学校の斉藤正健教諭により土呂久地区の鉱毒公害問題が報告されるや、これがにわかに世の注目を浴びることとなり、地元住民の間に大きな不安を生じさせたが、宮崎県(以下「県」という。)は、いち早く地元高千穂町と連携し、同月中に地元住民の一斉検診を行うとともに、「土呂久地区社会医学的調査」を実施し対策を進めた。

二 住民検診の結果、第一次検診で一五名が要精密検査となり、第二次検診では後に第一次訴訟の原告となった佐藤鶴江、鶴野秀男、鶴野クミ、佐藤實雄の四名を含む八名に砒素中毒症の疑いがあるとされ、この八名については更に第三次の精密検査が実施された。

三 次いで、県は、第二次検診により健康被害の状況が一応把握された昭和四七年一月末に社会医学的調査の中間報告を発表したが、その内容は「砒素中毒との因果関係は薄く、今後新しい健康被害の危険度は少ない」というものであった。その後、県は更に調査専門委員会を発足させ、同年二月一九日には知事自ら土呂久入りして現地視察や座談会を行った。

四 昭和四七年七月三一日、右社会医学的調査が完了し、佐藤鶴江、鶴野秀男ら七名が慢性砒素中毒症と思われる旨判断され、これに伴い、知事は、行政当局の立場から、住民の不安解消のため早期解決を目指し、同日付けで「土呂久鉱山の公害問題に関する行政上の措置について」と題する六項目から成る基本要綱を発表した。

この中で、「健康被害者に対する救済措置」としては、〈1〉公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法の適用を国に求める、〈2〉右適用実現までの間、県独自の緊急医療救済措置を設けて被害者の医療救済に当たる、〈3〉労災法の適用を求める旨の各措置とともに、「当事者と話し合いによる解決」と題し、補償問題については、「今回の場合、健康被害者の救済は基本的には健康被害者と現在の鉱業権者との間において解決されることが適当であると考えられるので、両者の話し合いにより円満に、かつ、早期に解決されることが望ましい。ついては、県としても、双方の意向を確認のうえ、人間尊重の立場に立って、両者の話し合いによる解決をするため斡旋に当たることとしたい。」との方針が示された。

五 そこで、知事は、翌八月一日被告に対し、法的責任の所在は別として話し合いによる解決の当事者になるよう要請し、求められれば自ら和解斡旋に当たることを申し入れ、同月九日被告から、将来の紛争を未然に防止し一切を円満解決する形で和解斡旋をして欲しい旨依頼を受け、続いて翌一〇日佐藤鶴江、鶴野秀男ら七名に対しても、法的責任の所在は別として被告との間の和解斡旋をしたい旨伝え、全員からその依頼を受けた。

六 その一方で、県は、前記基本要綱に基づき、「土呂久鉱山に係る健康被害の緊急医療救済措置要綱」を定め、昭和四七年八月二三日佐藤鶴江、鶴野秀男ら七名を同要綱による健康被害者と認定した。

第四 第一次の知事斡旋による和解が締結されるまでの経緯

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができ、甲ロ第一四、第三四号証のうち、以下の認定に抵触する部分は冒頭掲記の各証拠に照らして措信することが出来ず、他に以下の認定を覆すに足りる証拠はない。

一 前記佐藤鶴江ら被害者と被告の双方から斡旋の依頼を受けた知事は、昭和四七年九月八日「土呂久鉱山に係る健康被害者救済斡旋案審議専門委員設置要綱」を定め、弁護士二名と医師一名から成る三人委員会に委嘱して斡旋案の検討、作成を求めた。

二 三人委員会は、同月一八日から同年一二月二二日までの間七回に及ぶ審議を重ねるとともに、この間現地にも訪れて被害者の実情を調査した。他方、県の環境長ら担当者もまたしばしば現地に赴き、被害者らの実情調査と意向打診を行い、その調査結果は三人委員会に資料として提出された。同年一二月一日には、三人委員会による被告からの事情聴取も行われ、本件鉱業権を取得した経緯、中島鉱山との関係、鉱業権取得後の状況のほか、「地域振興資金を拠出して貰うことや、各個別の補償金額について被告の意向打診も行われた。

三 三人委員会は以上の経過を踏まえた末、同年一二月二七日付けで知事に対し、「補償は、健康被害者の健康に係る損失を填補する見地から考慮することとし、医療費、逸失利益及び慰謝料について配慮しつつこれを総合的に勘案して、慰謝料として支払うのが適当」とし、補償額は、佐藤鶴江は金二四〇万円、鶴野秀男は金三二〇万円、その余の五名は金一六〇万円又は金二〇〇万円とするのが相当であるとの意見書を提出した。

しかし、その概要は事前に県当局から当事者双方に内示されるとともに、知事斡旋を同月二七日から宮崎市で行う旨の日程も伝えられた。

四 知事は、予定どおり右当日宮崎市において第一次斡旋を行い、県施設の日向荘で斡旋開始の挨拶をした後、報道陣の取材を避けて同市内の平安閣に移り、県担当者をして、三人委員会の意見に基づく斡旋案の提示及びこれについての説明、説得を行わせたが、これには地元高千穂町長坂本来も終始同席した。

五 被害者らのうち、四名は既に斡旋案受諾の意向を表明していたが、佐藤鶴江、鶴野秀男、鶴野クミは、当初補償額が低過ぎると不満を述べ、特に鶴野秀男は金額算出の詳細な説明を求めたので、話し合いは主として右三名との間で行われた。斡旋は引き続いて翌二八日坂本町長立会いのもとに行われ、県担当者は斡旋額が前示のとおりであるのは認定症状に限られているためである旨説明した。右三名は補償額がある程度上積みされたこともあって、最終的には斡旋案を受け入れることに決めた。そのあと、被害者らは県庁に赴き、同意した内容を文書化する承諾書を作成した。

六 他方、知事は、二八日被告社長に対し、前日来の経過と内容を説明するとともに、補償金とは別に土呂久地区の地域振興資金として金一〇〇〇万円を一括拠出して欲しい旨要請し、その承諾を得たが、ここに至るまで被害者らと被告担当者が直接交渉することはなかった。続いて同日県庁において、被害者ら、被告担当者、知事が一堂に会し、斡旋合意内容の確認書の調印式が行われ、その場で被告から被害者ら全員に対し和解金全額が支払われた。鶴野秀男は七名全員を代表して挨拶し、知事や被告に謝意を表し、次いで佐藤鶴江も謝辞を述べた。しかし、鶴野秀男は、調印後県庁内で記者会見を行い、「完全な救済になっていないから、認定基準を高めて補償交渉をやり直す」旨話した。

七 なお、地域振興資金については、調印式の席上知事から披露され、高千穂町長、被告、知事三者間の合意確認書が取り交わされ、支払いは翌四八年二月になされた。

第五 第二次斡旋の経緯

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができ、〈証拠〉中、以下の認定に抵触する部分は冒頭掲記の各証拠に照らして措信することができず、他に以下の認定を覆すに足りる的確な資料はない。

一 第一次斡旋後の昭和四八年二月一日、土呂久地域は、公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(昭和四四年一二月一五日法律第九〇号、以下「救済法」という。)に基づく地域指定を受け、以後、慢性砒素中毒症被認定者は同法に定める救済措置の適用が受けられることとなった。

第一次斡旋の内容、方法等は広くマスコミ等によって報道され、佐藤ハルエらその後認定された被害者らも、直接の関係者としてその内容を承知していた。

その一方で、第一次斡旋を受けた被害者らのうち鶴野秀男、佐藤鶴江らとその支援者から、知事斡旋に対する批判が述べられ、マスコミに連日のごとく報道されるとともに、昭和四八年三月の宮崎県議会において、第一次斡旋を「密室の強姦」とする発言がなされ、物議をかもした。

また、横浜弁護士会の一部弁護士が、斡旋和解を公序良俗違反により無効とする意見書を発表した。

二 佐藤ハルエら五名は、昭和四八年七月二四日慢性砒素中毒症の認定を受けた。佐藤ハルエは、第一次斡旋受諾後それを批判するようになった佐藤鶴江の実姉であり、その夫佐藤實雄は、当時未だ慢性砒素中毒症の認定を受けていなかったが、当初から鶴野秀男、佐藤鶴江らとともに精密検診の対象とされて以来、被害者らの世話役的な存在であった。

なお、佐藤ハルエらが認定を受け、未だ後記知事斡旋を依頼する前の時点で、公害健康被害の補償等に関する法律(昭和四八年一〇月五日法律一一一号、以下「公健法」という。)が制定公布され、一年以内に前記救済法に代わって施行されることとなっていた。

三 以上のような経緯があったが、佐藤ハルエら認定を受けた五名は、昭和四八年一一月一三日高千穂町役場を訪れ、知事宛の斡旋依頼書を提出した。同町長は被害者らの強い要望に答えてその依頼書を知事に進達した。右の事情を知った被告においても、その二日後知事に対し、第一次斡旋と同様に一切円満に解決することを希望し、斡旋を依頼した。

四 しかし、知事は、一のような経緯があったため当初斡旋には消極的であり、双方の依頼に対しても即答せず、慎重な態度をとっていた。そして、邊保県環境長は、同月二〇日自ら現地を訪れ、佐藤ハルエら五名を戸別訪問して斡旋依頼意思が真意か否かを確認し、それぞれ皆異議のないことを確認した。こうした手続きを踏んだ知事は、ようやく同月二八日正式に斡旋依頼受諾を表明するに至った。

五 知事は、第一次斡旋と同じ構成から成る三人委員会に委嘱して斡旋案の作成、提出を求め、翌四九年一月三〇日その答申を受けた。その内容は、被害者により金二一〇万円から金二三〇万円までの額であったが、事前に高千穂町長に伝えられ、佐藤ハルエらに対しても、同月三一日斡旋開始に先立って邊保環境長が現地に赴き、戸別訪問してその概要と斡旋の日程を伝えた。

六 当事者に対する第二次斡旋作業は、翌二月一日から二日にかけて前記日向荘において行われた。これにも第一次斡旋におけると同様高千穂町長が常時立ち会ったほか、佐藤ハルエには夫の佐藤實雄が終始付き添った。依頼者五名中二名は、三人委員会の意見に基づく斡旋案を即座に了承したが、佐藤ハルエら三名は金額の上積みを求めたほか、佐藤ハルエにおいて更に請求権放棄条項の削除を強く主張したところ、県担当者から、「皮膚と鼻だけだから低い。他の病気がでたらまたみてやる」といわれ、右要求のいずれも認めて貰えなかったため、斡旋拒否に傾いたが、夫佐藤實雄と相談後一転して斡旋を受諾することに決めた。引き続き県庁で確認書の調印式が行われ、佐藤ハルエは被告から和解金二三〇万円を受領した。第一次斡旋同様、被害者と被告との間の直接交渉はなかった。

第六 第三次斡旋の経緯

第一の争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができ、〈証拠〉中、以下の認定に抵触する部分は冒頭掲記の各証拠に照らして措信できず、他に以下の認定を覆すに足りる的確な資料はない。

一 昭和四九年二月二八日、本件原告甲斐シズカ、同甲斐久光の被相続人である亡甲斐国頼のほか、第一次訴訟の原告佐藤實雄、同佐藤ハツネ、同佐藤仲治、同亡佐藤健蔵ら一三名が第三次認定患者として認定されたが、同年九月一日から公健法が適用されるため、知事においては、従来どおり斡旋を行うにしても被害者らに公健法による救済措置の内容を周知させた上で、斡旋依頼の意思を慎重に確認することが不可欠とし、同年五月一七日地元公民館で同法の説明会を行うにとどめていた。これに対し、佐藤實雄は知事斡旋の早期実施を切望する旨新聞記者に語った。

二 こうした経過の中で、佐藤實雄ら認定を受けた一三名は、同年六月一日高千穂町長に対し、知事宛の斡旋依頼書を提出した。被認定者のうち佐藤健蔵は認定後死亡したため、その妻タツ子から斡旋の願い出がなされ、同町長は全員の斡旋依頼を知事に進達した。また、被告においても、第一、二次斡旋と同様事態の円満解決を希望し、同日五日知事に対し斡旋を依頼した。

三 知事は、当事者双方から斡旋依頼を受けるに及んで、庁議検討の結果、公健法の内容を更に周知し斡旋依頼の意思を再確認した上で実施する方針を固め、これに基づいて、まず、邊保環境長が同月二一日現地を訪れて佐藤實雄ら一三名の意思を確認した。次いで、同年八月三〇日には、施行が二日後に迫った公健法について第二回目の現地説明会を行い、和解斡旋、公健法による救済の選択方を要請し、町長を通じて斡旋依頼の意思の再確認を求めた。

これに対し、一三名全員とも同年九月二日既定方針どおり斡旋依頼する旨を回答したので、町長は再度知事に進達した。

四 ところが、翌三日、佐藤實雄ほか二名は被害者を守る会の幹部とともに県庁を訪れ、療養関係全般の費用、生活費として金月額七万円、慰謝料一律金一六〇〇万円の支給を盛った斡旋を求めるとの申し入れ書(被害者の会会長佐藤實雄名義)と、被害者を守る会会長を被害者らの代理人として斡旋の場に立ち会わせる旨の委任状を提出した。知事としては、この申入れが第一、二次の斡旋内容とかけ離れているため、斡旋依頼の真意を質す必要があると考え、高千穂町長に照会を行った結果、全員とも白紙で依頼するとの確認が得られた。

五 ところで、同年六月、第一、二次斡旋と同じ委員から成る三人委員会が設けられ、同年七月下旬現地において、被害者らに対する事情聴取が行われたが、前記四の経緯のため作業が一旦中断した後、同年一一月一六日再開され、同年一二月二〇日被害者により金二四〇万円から金三九〇万円とする意見書が提出された。次いで、同年二三日邊保環境長が佐藤實雄、亡甲斐国頼ら全員を戸別訪問して、斡旋の概要と基本的な考え方を説明し、斡旋の日程を伝達した。

六 当事者に対する第三次斡旋は、昭和四九年一二月二五日から三日間前記日向壮において行われ、一日目は金額算定の考え方など総括説明のあと、三人委員会の意見書に基づく斡旋案が各自に提示され、その内容説明がなされた。二日目は全員が一堂に会して質疑応答が行われ、その後個別の意向聴取がなされた。三日目は全員同席の上斡旋諾否の意向聴取、次いで、個別に最終的な確認が行われた。その過程で、被害者から金額の不満が述べられたが、県担当者は「額が低いのは皮膚と鼻だけのためで、認定条件が広まったらまた検討する」と説明した。三日目の段階に至って、明治、大正生まれの高齢者が多い一三名の中で比較的若令の佐藤仲治(明治四三年七月一一日生)ほか二名(大正三年六月二九日生、大正一〇年一二月一五日生)が公健法適用の途を選択することに決め、斡旋を受けないこととした。佐藤實雄は、当初金額が少ないとして斡旋を受けないような態度を示していたが、最終段階で翻意し、結局、一三名中、右斡旋拒否の三名を除き、最年長の亡甲斐国頼(明治二九年一一月二五日生)、佐藤實雄(明治四〇年九月一日生)、佐藤ハツネ(大正七年一月四日生)ら一〇名が斡旋案に応じた。そのあと、県庁において確認書の調印式が行われ、被告から和解金全額が支払われたこと及びこの段階に至るまで被害者らと被告との間に直接交渉がなかったことは、第一、二次斡旋の場合と同様である。

なお、三日間にわたる斡旋には、高千穂町長、同町議会議員、被害者の親族のほか、被害者を守る会の会員(ただし、発言は禁止された。)が連日立ち会った。

第七 第四次斡旋の経緯

〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

一 本件原告佐藤千代三、同佐藤タモ(千代三の実姉)ら二三名は昭和四九年一〇月一日慢性砒素中毒症の認定を受け、一〇日後現地公民館で行われた公健法説明会に出席して、県担当者からその適用に関する説明を受けた末、全員とも知事の斡旋を希望し、翌昭和五〇年一月二五日、高千穂町長に対し知事宛斡旋依頼書を提出した。

二 同町長から右斡旋依頼の進達を受けた知事は、庁議検討の結果、同年二月一七日、各依頼者の意思を再確認の上従どおりの考え方で第四次斡旋を実施するという方針を固め、翌一八日邊保環境長が現地入りして二三名の依頼意思を再確認したところ、全員とも右依頼書どおりの意向であることが分かった。

三 そこで、第一ないし第三次斡旋におけると同様、知事から委嘱を受けた前記三人委員会は、当事者双方からの事情聴取など四回の調査、審議を重ねた末、昭和五〇年四月二六日意見書を知事に提出した。その内容は被害者により金二三〇万円から金三九〇万円というものであった。

四 当事者に対する斡旋作業は、依頼者数も大勢になり、現地の要望もあって、同月二八日から地元高千穂町岩戸支所で行われた。そして、三人委員会の意見書に基づく各斡旋案が被害者のそれぞれに提示され、邊保環境長から内容の説明がなされた。これに対し、佐藤千代三、佐藤タモをはじめ、依頼者らから特段の質疑や不満は出なかったが、県担当者は慎重を期し、回答用紙を配付して各自熟慮の上諾否を記入するよう求めた。二日後全員の受諾回答が出揃い、また、被告も斡旋案を受諾した。そして、翌五月一日当事者双方は岩戸支所に会してそれぞれ確認書に調印し、佐藤千代三は和解金二五〇万円、佐藤タモは同金二三〇万円を受領した。このようにして、第四次の斡旋は、第三次におけるような曲折もなく、これまでのうちで最も円滑裡に行われた。なお、右調印に至るまで、被害者らと被告との間に直接交渉がなかったことは、これまで同様である。

第八 第五次斡旋の経緯

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができ、甲ロ第四二号証中、右認定に抵触する部分は冒頭掲記の各証拠に照らして措信することができず、他に以下の認定を覆すに足りる的確な資料はない。

一 昭和五〇年一二月二七日、第一次斡旋を受けた佐藤鶴江と鶴野秀男、第三次斡旋に臨みながら最後に公健法の途を選択した佐藤仲治らを含む者らが原告となって、被告を相手取り、第一次訴訟(宮崎地方裁判所延岡支部昭和五〇年(ワ)第一八六号等損害賠償請求事件)を提起し、知事斡旋の無効を主張した。しかしながら、このような状況下にありながら、翌五一年三月二四日慢性砒素中毒症の認定を受けた被害者三八名中三四名は、知事斡旋を希望し、その代表五名が高千穂町長に対し知事斡旋依頼を申し入れ、次いで、同年四月、補償問題を訴訟によることなく、従前どおり知事斡旋による補償金の一時払いにより解決することを希望する旨の宣言を発して「第五次認定患者同志会」なる有志団体(以下「同志会」という。)を結成し、知事斡旋の実現に向けて結束することを申し合わせた。

二 次いで、同志会の加入者らは全員、補償金一時払いに関する交渉の委任状と斡旋希望不変の誓約書を同志会の代表に提出した。かくして結束を固めた同志会は、同月三〇日高千穂町長に実情を訴えて知事斡旋を要請するよう嘆願し、五月六日には、知事宛の嘆願書を同町長に託した。同町長は、同月一七日、「公健法施行、訴訟問題等の諸事情を踏まえながら慎重に検討した結果、知事斡旋が最善の方法と考える」との意見を付して、知事に前記嘆願書を進達する一方、同月二二日町議会議員、同志会代表二名とともに県を訪れ、知事に斡旋を陳情した。

他方、同月二七日には一〇名の認定が追加され、うち三名が斡旋を希望して同志会に加入し、この三名についてもなお斡旋追加の嘆願書が同町長を経由して知事に提出され、結局、斡旋希望者は合計三七名になった。

三 知事は、これらの者から真摯な依頼、陳情を受けるに及び、庁議検討の結果、第五次斡旋に踏み切ることとし、同年六月一五日当初の三四名につきその旨表明した。これに対し、被害者を守る会が県に抗議申入れ書を提出したため、同志会は会員三七名全員連名の書面をもって右守る会に抗議するいきさつがあった。

知事は、同年七月三日、追加認定被害者中斡旋を希望した三名についても斡旋実施を決定し、そのころ被告も斡旋に同意した。

四 そこで、知事は第一ないし第四次斡旋の場合と同様三人委員会を設けて斡旋案の作成、提出を求めた。三人委員会は、同年七月三〇日現地において三日間にわたり各被害者の生活歴、病歴などについて事情聴取を行った。これに先立ち、県環境保健部においても、四日間にわたり三七名全員に対する個別面接を行った。

五 当事者に対する斡旋作業は、昭和五一年一〇月一三日から前回同様高千穂町岩戸支所で行われ、三人委員会の答申意見に基づいた斡旋案が当事者双方に提示され、質疑応答の後、三七名は全員別室で検討を行い、そのあと全員受諾の意向が表明されたが、県担当者は慎重を期し、前回同様回答用紙を配付して、各自熟慮の上後日諾否を記入回答するよう求めた。翌一四日も格別の質疑や申出はなく、一五日には当事者双方全員から受諾の回答がなされた。翌一六日、双方が岩戸支所に会し、知事も出席して確認書の調印、和解金の支払いが行われた。

第九 知事斡旋における被害者らの補償の対象について

一 ところで、被告は、知事斡旋における補償の対象について、原告患者らの全身にわたるあらゆる症状を対象として補償金が算出された旨主張し、〈証拠〉によれば、斡旋に当たった後藤、邊保各県環境長も右主張に沿う証言をしている。しかしながら、右証言は以下の事実関係に照らし、措信することができない。

かえって、〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる的確な資料はない。

1 県は、昭和四六年秋ころ本件土呂久鉱害が問題化した後、自ら土呂久鉱山に係る健康調査を行うとともに、医療専門グループによる検査と報告を求め、砒素に起因する症状の実態把握と慢性砒素中毒症の病像についての知見習得に努めた。これに対する調査結果及び報告書は昭和四七年七月までに次のような内容のものとして提出された。

〈1〉 昭和四七年七月 宮崎県調査結果(土呂久地区の鉱害にかかわる社会医学的調査成績)及び同調査の要約

これによれば、佐藤鶴江ら七名を皮膚所見から慢性砒素中毒症と思われると診断している。

〈2〉 同年七月五日 熊本大学付属病院長中村家政による「土呂久地区の健康調査報告」

いわゆる「中村報告」といわれ、第一次認定患者となった七名のうち四名について精密検査を行ったものである。これによると、四名全員について多彩な症状の存在を認めながら、「皮膚の病的所見(良性角化症、色素沈着、脱色素斑)から慢性砒素中毒症と思われる。肺気腫、全歯脱落、音感系難聴、嗅覚障害、視野障害等は砒素等との因果関係は現時点では学問的に見て不明である。」としている。

〈3〉 同年七月三一日 九州大学医学部教授倉恒匡徳ほか五名による「土呂久地区社会医学的専門委員会報告書」

いわゆる「倉恒報告」といわれ、前記七名について慢性砒素中毒症と考えられるとしつつ、皮膚所見については砒素との因果関係を肯定するが、その他の諸症状については現在の知見では十分に説明ができないと考えられる。」として、その因果関係を認めていない。

2 以上の報告で結局砒素起因性を認められたものは皮膚症状のみであり、その他の症状はその起因性が認められなかった。そこで、県は、慢性砒素中毒症の症状を右知見のようなものと把握し、これを前提として「土呂久鉱山に係る健康被害の緊急医療救済措置要綱」を作り、昭和四七年八月一四日から実施したが、その第二条において、亜砒酸に起因する病像を「亜砒酸に起因すると思われる皮膚疾患その他の疾患」と定義し、慢性砒素中毒症の症状を皮膚中心のものとして捉え、それを明記している。

3 次いで、環境庁により昭和四八年二月一日付けで慢性砒素中毒症の認定基準が定められ、皮膚の色素異常及び角化の多発と、鼻粘膜瘢痕又は鼻中隔穿孔とされた。その後翌四九年五月一五日右認定基準に多発性神経炎が追加された。環境庁による認定基準が定められた後は、県は慢性砒素中毒症の症状を右基準のものと認識し、各斡旋に当たった。現に、第一次斡旋に当たった後藤環境長は「慢性砒素中毒症の病像については、患者に対する調査、聞き取り、熊大等における専門的な診断結果を通じて認識していた。慢性砒素中毒症の判定となる要素として皮膚があり、その他の疾患が砒素との関連性を有するか否かは分からないという判断認識だったと思う」旨、また、土呂久の慢性砒素中毒症とみられた人について昭和四七年七月段階で「皮膚以外に慢性砒素中毒症だといったものはなかった。」旨(〈証拠〉)、さらに、第二次以降の斡旋に当たった邊保環境長においても「慢性砒素中毒症の病像自体としては、認定基準に関係するものを考えていた」旨(〈証拠〉)それぞれ証言している。

4 県は、佐藤トネにかかる認定申請棄却処分に対する審査請求事件の中で、「国が通知してきた認定要件はその時の知見に基づいて作られたものであり、処分庁としては、通知に重大明白な瑕疵があるとは考えず、したがって、三要件以外の症状については、今後更に研究、解明されるべきものと考える。」と主張している(昭和五五年五月一九日付け公害健康被害補償不服審査会裁決)。

二 〈証拠〉によれば、認定後肺癌で死亡し、その妻が第三次斡旋を受けた佐藤健蔵についての斡旋案第五項ただし書きにおいて、「死亡の原因と慢性砒素中毒症との関連について斡旋者が判断でき得た時点において補償額を検討することを留保する。」とされている。これについて、〈証拠〉によれば、邊保環境長は「肺癌と砒素との因果関係があいまいだったので、認定要件に高まった時点で補償の対象とする趣旨であった」旨証言している。しかし、患者の全身的症状が補償の対象とされていたものであれば、このような留保条項を設ける必要はないと考えるから、右事実は補償対象の症状が限定されていたことを窺わせるひとつの証左といわなければならない。なお、右留保条項は一見死亡のみ別異に取り扱っているような記載になっているが、そのように限定的に解すべきでないことは後記のとおりである。

三 さらに、前記認定のとおり、本件和解契約の内容となった斡旋案には「砒素に起因する・・・健康被害」について補償するとされており、既に発生している一切の健康被害に対するものとはされていない。

四 第一次ないし第五次の斡旋の過程で、県担当者が被害者らに対し、斡旋額が低いのは認定症状が限られているためであるとか、皮膚と鼻だけだから低い、認定要件が広がったらまた検討する等と説得していることは前記認定のとおりであり、〈証拠〉によれば、昭和四九年九月二一日付けの新聞数紙にも同旨の報道がなされている。

五 しかして、被告が本件において法的責任を否定し、かつ、原告被害者らの全身的症状を全面的に争っていることは明らかである。

六 冒頭掲記の証拠によれば、知事は、斡旋に先立って認定のための検診等を行い、被害者らの具体的症状を把握し、この中から認定症状に該当する特定の症状を砒素起因性のあるものとみなし、その時点におけるその特定の症状を前提として斡旋に当たっていることが認められるところ、これらの事実及び一ないし五の事実関係を総合勘案すると、斡旋の対象とされた健康被害は、右認定症状に限定され、しかも、その範囲内で既往のものを含み各斡旋当時の被害者らに具体的に発症し、それが知事側に判明していた症状に限定されていたものといわなければならない。

したがって、たとえ各斡旋時において認定症状の範囲に含まれる症状であっても、その時点で発症しておらずその後新たに発症、増悪した症状は補償の対象に含まれておらず、さらに、仮に客観的に発症していても当事者に判明していなかった症状も含まれていなかったものといわなければならない。

もっとも、被告は、当時の一般的な退職金の水準や自賠責保険金額等と比較しても和解金額が高額であるから、全身的な症状を対象としている旨主張する。

なるほど、〈証拠〉によれば、地元に事業所のある旭化成や被告会社における当時の三〇年勤続男子一般社員の退職金額は金三一六万円から金四〇四万円程度であり、また、亡甲斐国頼、原告佐藤千代三、同佐藤タモが受領した金二三〇万円から金二五〇万円までの金額は、地元高千穂町における勤続二〇年前後の一般職員の退職金と大差がないことが認められる。

しかしながら、〈証拠〉によれば、例えば第一次斡旋を受諾した佐藤鶴江は、和解金三〇〇万円を受領するや、それまでの右和解金の中から生活費等を支出することを余儀なくされ、その結果、昭和五一年ころには全部遣い果たして再び生活保護を申請していることが認められるほか、後記公健法による給付の損益相殺のところでみるように、斡旋和解をしなかった佐藤マサ子ら一五名の認定患者らにつき、本件弁論終結時(平成元年一二月一三日)の時点においてさえ、少なきは約金七五六万円から多きは約金二五五七万円の補償金を受領しており、しかも、補償金の交付は今後なお継続されていく見通しであることを睨み合わせるならば、当時における退職金の水準が如何に右のとおりであったとしても、斡旋による和解金額は高額又は妥当な金額であるとは到底いえないというよりむしろ、あまりに低いといわざるを得ない次第である。なお、本件の場合、制度、趣旨の全く異なる自賠責保険金額と比較することは適切でないと考えられる。

したがって、右退職金等の事実をもってしても、前記認定、判断を妨げることはできないというべきである。

七 以上のとおりであるとすれば、本件第三、四次斡旋において一般的に補償の対象となった健康被害は、第三次斡旋成立時(昭和四九年一二月二七日)では皮膚症状と鼻粘膜症状(ただし、第三次斡旋成立時までには認定症状に多発性神経炎が追加されているが、亡甲斐国頼の認定はそれより前になされている上、同人の具体的症状としては後記のように皮膚症状しかなく、それ以外の症状は補償の対象になっていない。)、第四次斡旋成立時(昭和五〇年五月一日)では、右二症状と多発性神経炎(ただし、佐藤千代三と佐藤タモの具体的症状としては後記のように皮膚症状しかなく、それ以外の症状は補償の対象になっていない。)ということとなり、具体的に補償の対象となった健康被害は、亡甲斐国頼、佐藤千代三及び佐藤タモの三名とも皮膚症状のみであって、その他の症状は補償の対象になっていなかったものというべきである。

八 ところで、前記のとおり、各斡旋条項には「補償金を受領した後は、被告に対して、名目のいかんを問わず将来にわたり一切の請求を行わない」旨の条項が存在するところ、被告は、これを根拠に、前記の健康被害の解釈いかんにかかわらず、被害者らの一切の請求権が放棄されたものであると主張する。

しかし、どちらかといえば慢性砒素中毒症の中でさほど重篤でない皮膚症状を補償の対象として支払われた金額と引換えに、右三名が後記の胃腸障害、聴力障害、中枢神経障害、造血器障害(佐藤千代三)、聴力障害、高血圧・高度の痴呆、意識障害といった心循環障害(佐藤タモ)、中枢神経障害、難聴、嗅覚障害(甲斐国頼)といった重篤な症状に対する賠償請求権を含む一切の請求権を放棄したものと解することは、著しく不合理であって相当でないというべきであり、したがって、右請求権放棄条項は、前記補償の対象となった健康被害の範囲で、これに係る請求権を放棄した趣旨に過ぎないものと解するのが相当である(もっとも、佐藤健蔵に関する斡旋案には、死亡原因となった疾病の損害賠償請求権だけが留保されたかのような条項があるが、これは斡旋案が、当時砒素に起因する症状で未発生のものや前記補償の対象とされたもの以外の症状は存在しないとの前提で作成されたためであって、この前提が成り立たない以上、他の和解の場合と同様に解すべきである。)。

九 以上の事実及び判断によれば、第三次以降の斡旋和解においては、先行した第一、二次斡旋の方法及びこれに基づく和解の内容が広く報道され、これに対する賛否の意見が展開されている状況下において、上記三名は、これらの実情を十分認識した上で斡旋和解の途を選択しているものであって、知事の斡旋により、上記三名と被告との間で、当事の知見で砒素に起因するとされていた既往及び現在の皮膚症状のみを補償の対象とする和解契約が成立したものというべきである。

第一〇 再抗弁について

一 そこで、進んで要素の錯誤による無効の主張について検討するに、本件和解契約の内容は、右認定のように砒素に起因する症状を当時の認定症状であって、しかも、現に発症しているものに限定されていたものであるから、上記三名と被告との間で相互に認識して契約の前提とした被害と、実際のそれとの間に錯誤がないことは明らかである。したがって、右主張は失当というべきである。

二 次に、公序良俗違反による無効の主張についてみることとする。

1 土呂久鉱山の操業が昭和三七年以降止んだこと、土呂久鉱害問題が昭和四六年一一月告発されるに至ったこと、県がいち早くその調査等を行い、本件斡旋に乗り出したことは前記認定のとおりであるが、斡旋の目的が、企業擁護の立場から被害者切捨てによる問題の早期収拾を図ったものであるか否かについては、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

2 被害者が全身的症状に対する完全補償を要求したのに対し、県担当者において、補償の対象となる症状は認定基準に限定されると説明したことをもって直ちに被害者を不当に押さえつけたということはできないし、第一次から第五次の斡旋の過程で被害者から出された諸要求を強引に撤回させたとまでみる証拠もなく、また、被害者代理人の立会いを拒否したこと及び外部との相談を阻止したとみる証拠はないし、被害者らからのみ斡旋案承諾書を取ったことをもって直ちに被害者に対する押さえつけとみることも早計である。

3 三人委員会が知事の早期収拾目的を実現するための公正さを装った低額押しつけの道具として、事情聴取の場で被害者らに対し押さえつけの説得をしたか否かについては、これを認めるに足りる確証はない。

4 第一次斡旋が平安閣において行われたことは前記認定のとおりであるが、外部との連絡を一切遮断した中で斡旋案を遮二無二押しつけたとまでみる確証はない。

5 本件斡旋和解における補償の対象は前記のとおりであるが、だからといって、この事実から直ちに和解が不当なものであるとはいえない。

6 公健法の施行については、知事は現地において説明会を行うなどしているのであって、被害者をして公健法又は斡旋和解の二者択一しかないものと思い込ませ、事実上斡旋を強要したか否かについては、これを認めるに足りる確証はない。

7 〈証拠〉によれば、佐藤鶴江らが未だ斉藤報告のない時期である昭和四六年六月三〇日土呂久鉱害事件に関する法律扶助の申請をしたこと、法律扶助協会宮崎県支部では、鍬田萬喜雄弁護士に報告書を提出させて検討したが、砒素と疾患との間に因果関係を明白にするための医学的鑑定を行う費用がなく、現段階では事実、法律関係を確定する見通しが立たないとして、昭和四九年三月一六日付けで却下したことが認められるが、更に進んで、知事又は被告において、被害者らの無知、窮迫に乗じて斡旋和解を結ばせたとみるべき確証はない。

8 本件斡旋和解における補償の対象は前記のとおりであるから、第三、四次斡旋の和解金額が必ずしも不当に低額であるとはいえない。

9 知事において、土呂久地区の村落共同体としての一体性を利用し、斡旋の過程で「一人でも拒否したら斡旋を受けられなくなる」などと述べて、部落ごと斡旋の中に取り込み、不当な内容の受諾を押しつけたか否かについても、これを認めるに足りる確証はない。

10 以上のとおりであって、知事が被害者らの無知、窮迫に乗じ、不公正な方法で、実際の損害に比べ著しく低い額と引換え、被害者らの正当な損害賠償請求権を不当に放棄させることだけを目的としてなされたものとまでみる証拠はない。したがって、公序良俗違反による無効の主張もまた理由がないというべきである。

三 まとめ

以上の事実及び判断を要約すると、知事の斡旋による本件第三、四次の和解は、上記三名と被告との間において、斡旋当時の知見で砒素に起因するとされていた既往及び現在の認定症状のうち皮膚症状を補償の対象とする限度で、有効に成立したものといわなければならない。してみると、被告の和解の抗弁は右の限度で理由があり、上記三名の損害は右和解金の限度において補填されているものというべきである。

第二節  消滅時効、除斥期間の抗弁

第一 亜砒酸製造の終了による時効等の主張について

鉱業法一一五条一項は、「損害賠償請求権は、損害及び賠償義務者を知った時から三年間行わないときは、時効によって消滅する。損害の発生の時から二十年を経過したときも、同様とする。」と、同二項は「前項の期間は、進行中の損害については、その進行のやんだ時から起算する。」と各定めている。

しかるところ、被告は、亜砒酸製造終了後における損害の発生は考えられないとして、岩戸鉱山株式会社が土呂久鉱山を閉山した昭和一六年秋、又は中島鉱山株式会社が閉山した昭和三七年秋を各起算点とする消滅時効、除斥期間の主張をする。

二十年の期間の法的性質が除斥期間又は消滅時効期間のいずれであるかについては問題があるが、この点はしばらく措くこととして、既に認定したとおり、本件の健康被害は、皮膚や粘膜の刺激症状に始まり、砒素等による曝露終了後も、長期間にわたって次第に皮膚症状、多発性神経炎、呼吸器障害、胃腸障害、循環障害、更には肺癌等、広範かつ多彩な症状が出現、増悪するものである上、本件被害者らはいずれも右各閉山後においても新たな症状が出現、増悪し、又は死亡(ただし、砒素曝露との因果関係が認められる者に限る)するに至ったものである。

してみると、被告の右主張は前提を欠き失当というべきである。

第二 土呂久を離れた者らに関する時効等の主張について

被告は、土呂久を離れた原告佐藤マサ子ら一〇名につき、その時以降の損害の発生はあり得ないとして、その時を起算点とする消滅時効等を主張するけれども、その前提が成り立たないことは一における説示に照らし明らかであるから、右主張も失当である。

第三 慢性砒素中毒症の認定、和解金の受領による時効の主張について

被告は、第一次訴訟の提起、原告らの慢性砒素中毒症の認定、また、上記三名の和解金受領の各事実により、原告らにおいて本件損害とその賠償義務者とを知ったとして、各認定日又は和解金受領の日を起算点とする消滅時効を主張する。

しかしながら、慢性砒素中毒症の症状は広範かつ多彩な症状の組合せからなっているのであって、それらはすべて砒素中毒という一個の中毒の発現形態なのであるから、個々の症状毎に損害を捉えるのではなく、全身にわたる健康被害を全体的に一個の損害として捉えるべきである。しかして、原告らの健康被害は今なお増悪しているのであるから、その損害は全体的に進行中であって、鉱業法一一五条二項にいう「その進行のやんだ時」は到来していない。

また、前叙のとおり、土呂久鉱山は大正九年ころから亜砒酸製造鉱山として変貌を遂げ、土呂久地区は大気、水、土壌のすべてが砒素による汚染を受けることとなったが、この汚染は、大正九年ころから昭和一七年ころまで及び昭和三〇年ころから昭和三七年ころまでの亜砒酸製造期間中に排出された鉱煙のほか、亜砒酸製造の終了後も有効な防止対策がとられないまま土呂久に堆積され続けてきた捨石や鉱滓及び操業終了後も放流され続けてきた坑水により、継続されてきたものである。したがって、原告らのうち、土呂久に引き続き存在している佐藤トネ(惣見部落)及び佐藤直(畑中部落)については、砒素曝露の継続による症状の増悪、進行は現在も否定できないから、この意味でも損害の進行がやんだとはいえない。

百歩譲って、仮に消滅時効の進行が問題になるとしても、その起算点たる損害を知った時とは、損害が違法な加害行為によるもので加害行為と損害の発生との間に相当因果関係があることを知り、かつ、被害者の加害者に対する賠償請求が事実上可能な状況のもとにそれが可能な程度に具体的な資料に基づいて、損害を認識し得た場合をいうものと解すべきである。

しかして、一般に因果関係や病像について争いがある場合には、行政庁その他権威ある機関によって大方の異論をみない見解が公表された時が、損害を知った時又は知り得た時とされるべきものであるところ、行政認定の時点においては、原告らが主張する広範な健康被害と砒素曝露との間の因果関係に未解決の面があり、その後認定基準が若干拡大されたものの、未だ慢性砒素中毒症の全体像は明らかにされていなかったものである。慢性砒素中毒症が全身的で多彩かつ進行性の症状であるとの病像が権威ある機関によって公に認定されたのは、強いていえば第一次訴訟の判決が言い渡された昭和五九年三月二八日の時が最初であり、したがって、行政認定の時点では、原告らにおいてせいぜい損害の一部を知ったというに過ぎず、全身性の広範な健康被害としての慢性砒素中毒症全体との関係では、未だ「損害を知った」とはいえないものというべきである。

のみならず、「賠償者を知った時」についても、知事による本件斡旋は被告の法的責任を棚上げにしてなされている上、佐藤鶴江らが昭和五〇年末被告を相手に提訴したからといっても、本件における賠償義務者は鉱業法の解釈を通じて導かれる高度に技術的な事柄であるから、本件原告らにおいて、その賠償義務者が誰であるかを、損害賠償請求権が事実上可能な程度に知り得た時といえるのは、早くとも原告らが弁護団と協議し、本件提訴に及んだ直前ころというべきである。したがって、慢性砒素中毒症の認定等を起算点とする被告の主張もまた失当である。

第四 大崎架裟蔵ら四名の死亡時を起算点とする時効の主張について

被告は、亡大崎架裟蔵ら四名の遺族らはいずれも佐藤鶴江らの提訴及び認定の事実を知っていたから、各死亡時を起算点とする消滅時効が完成したと主張するけれども、これが当たらないことは第三で説示したところに照らし明らかである。

第五 その他の時効の主張について

以上のほか、被告は、佐藤タモら三名につき親族の佐藤正四が別件を提訴した昭和五三年三月、富高暁及び甲斐ミサエにつき各認定申請した昭和五四年ころ、佐藤トネにつき公害健康被害補償不服審査会の裁決を受けた昭和五五年五月を各起算点とする消滅時効の完成を主張するが、右いずれの時点においても未だ損害及び賠償義務者を知ったとはいえないことは、第三で説示したところに照らし明らかである。

第六 まとめ

以上において検討したところによれば、消滅時効等の主張はその余の点につき判断するまでもなくすべて失当というべきである。

第三節  請求権の自壊による失効の抗弁について

原告らの健康被害は、土呂久における亜砒酸製造が本格化した大正九、一〇年ころから大正末にかけて、あるいは昭和一〇年ころから一〇年代後半にかけて発症しているが、本訴に至るまでの長期間の間、鉱業権者に対し具体的な損害の賠償を請求しなかったことは、被告主張のとおりである。

ところで、時効制度以外に請求権の自壊による失効の理論を認め得るか否かについては見解が分かれるが、仮にこれを採るとしても、慢性砒素中毒症による原告らの健康被害は、繰り返し述べるように、砒素曝露後も長期間にわたって広範かつ多彩な症状が出現、増悪するものであるが、このような慢性砒素中毒症の病像はごく最近に至るまで十分解明されていなかったこと、鉱業法に基づく鉱業権者の責任の有無についても、第一次訴訟提起のころに至るまで意識されないまま経過したこと等の事情に照らすと、土呂久鉱山従業歴の有無を問わず、原告らにおいて、自己に一部の症状が発症したからといって直ちに当時の鉱業権者に対しその賠償を求めなかったのは、やむを得なかったことといわなければならない。

してみると、被告においてその損害賠償請求権が最早行使せられないものと信頼すべき正当の事由を有し、右権利の行使が信義誠実に反するものということは到底できず、請求権自壊の抗弁は理由がないというべきである。

第四節  損益相殺の抗弁について

第一 公健法に基づく損害填補又は縮減

一 知事斡旋による和解をしなかった佐藤マサ子ら一五名の原告らについて、本件口頭弁論終結時(平成元年一二月一三日)の時点で、それぞれ被告主張の額の諸給付金(少ない者で金七五六万余円、多い者で金二五五七万余円)を受領していること、右諸給付金は、公健法に定める療養の給付及び療養費、障害補償費、遺族補償費、遺族補償一時金、療養手当て、葬祭料の合計額であり、その内訳は、別表「公健法給付一覧表」のとおりであること及び受給者関係の事実は、当事者間に争いがない。

二 ところで、被告は、原告らにおいて固有の精神的損害に対する慰謝料のほか、種々の財産的損害に対する賠償を含めたものを包括慰謝料として請求しているとし、公健法による諸給付の給付名目がいかなるものであろうとすべて原告らの請求に包摂される損害の填補を目的として支給されるものである以上、その受給は原告ら主張の損害と同一の原因によって生じた利得であるとして、これを全損害額から控除すべきである旨主張する。

しかしながら、公健法による諸給付を受けた前記一五名の原告らは、前述のとおり一見財産的損害を包括的に含めた慰謝料を請求しているかのごとくであるが、その損害の主張を合理的に理解するならば、原告らが本訴で具体的に求めている損害賠償の内容は、健康被害の精神的苦痛に伴う慰謝料であるとみるべきものであることは、後記第五章で説示するとおりである。

しかして、公健法はその立法経緯及び公害による健康被害に係る損害を填補することを目的としている(同法一条)ことに徴し、民事責任を基礎に置いたものというべく、したがって、同法により補償給付がなされた場合には、被害者の損害はその補償給付に相当する分だけ填補されることとなるので、同法によりなされた補償給付と「同一の事由」について被害者が不法行為を行った事業者に対して有する損害賠償請求権は、その価格の限度で当然に消滅又は縮減し、不法行為を行った事業者は、被害者に対してはその限度で免責されることとなる。

そして、右にいう保険給付と損害賠償とが「同一の事由」の関係にあるとは、保険給付の趣旨目的と民事上の損害賠償のそれとが同性質であり、保険給付と損害賠償とが相互補完性を有する関係にある場合をいうものと解すべきである。

三 そこで、これを本件についてみるに、同法による諸給付は、以下の理由により、原告らの損害と同一の事由によりなされたものではないと認められる。すなわち、公健法は、昭和四八年四月五日付け中央公害対策審議会答申「公害に係る健康被害損害賠償保障制度について」に基づいて制定されたものであって、給付内容としては、〈1〉療養の給付、〈2〉療養費、〈3〉障害補償費、〈4〉遺族補償費、〈5〉遺族補償一時金、〈6〉児童補償手当金(ただし、本件で被害者原告らが受給したのは〈3〉ないし〈5〉であって、〈6〉は無関係)、〈7〉療養手当て、〈8〉葬祭料が規定されているが、精神的損害に対する慰謝料という項目を規定していない。この点につき前記答申では、被害者の慰謝料請求権の評価は基本的には民事訴訟に委ねることとするが、本制度にもある程度慰謝料の要素を織り込み、制度全体の中でその要素をどのように生かすかという方向で、給付の種類なり給付の水準を検討したとされている。そして、給付の種類で慰謝料が検討された補償は、給付の趣旨、内容に照らし〈3〉ないし〈6〉であると解される。ところで、前記答申は、〈3〉ないし〈5〉の給付水準について、各種公害裁判の判決の逸失利益(全労働者の平均賃金)と社会保険制度の給付水準の中間が適当であるとし、これに従って環境庁告示により給付水準が決定されている。その結果、〈3〉ないし〈5〉の給付額は、公害裁判の判決が逸失利益の喪失による財産的損害と認める水準に比べて二〇ないし三〇パーセントも低い金額となっている。以上の点は公知の事実である。してみると、たとえ立法者が慰謝料的要素を含むと考えたとしても、具体的な給付の種類や給付水準をみる限り、公健法は財産的損害のみを填補するものと認められ、同法が定める諸給付の中に慰謝料が含まれていると解することは到底できないというべきである。

四 してみると、公健法による諸給付は、右原告らの損害と同一の事由により支給されたものといえないことに帰するから、右原告らの損害からそれに相当する分を控除することは許されないというべきである。

第二 労災法による補償給付の受領

一 給付受領の事実

被告主張の労災法給付の受領(別紙「じん肺補償給付一覧表」記載の額)のうち、次の受領は証拠により認定でき、あるいは当事者間に争いがない。

1 療養補償給付

建吉、重臣、光が被告主張の額を受領したことは、〈証拠〉により認めることができる。

2 休業補償給付及び休業特別支給金

建吉、重臣、光、嵩が被告主張の額を受領したことは、当事者間に争いがない。

3 傷病補償年金、傷病特別年金及び傷病特別支給金

右の三給付につき、その合計額を建吉が被告主張の額を受領したことは、当事者間に争いがない。

重臣については、傷病補償年金として三七八万二三三三円、傷病特別年金として七五万六八七五円を受給したこと、傷病特別支給金として一〇〇万円を受給したことは、当事者間に争いがない。

光については、傷病補償年金として三九一万五三〇〇円、傷病特別年金として七八万三五二五円を受給したこと、傷病特別支給金として一〇〇万円を受給したことは当事者間に争いがない。

嵩については、傷病補償年金として二一六万六七〇〇円、傷病特別年金として三六万六〇〇〇円を受給したことは、当事者間に争いがない。

4 遺族補償年金、遺族特別年金及び遺族特別支給金

建吉については、遺族補償年金として二五六万六五五〇円を、遺族特別支給金として三〇〇万円を受給権者である原告佐藤キミ子が受給したことは、当事者間に争いがない。

嵩については、遺族補償年金として一二八七万一二五〇円、遺族特別年金として二一一万八三五〇円を、遺族特別支給金として二〇〇万円を受給権者である原告米田アヤノが受給したことは、当事者間に争いがない。

5 葬祭料

嵩の葬祭料三二万五九三六円を、同人の親族である原告米田壽成が受給したことは当事者間に争いがない。

二 ところで、後に第五章で述べるとおり、原告らが本訴請求で求めている損害は、原告らの健康被害に関する精神的苦痛を慰謝するための慰謝料と解すべきである。

他方、原告らが受領した労災保険法による給付のうち、療養補償給付、休業補償給付、傷病補償年金、遺族補償年金及び葬祭料といった保険給付は、労働者の被った財産上の損害の填補のためにのみなされるのであって、精神的苦痛の填補の目的を含むものではないから、原告らが右保険給付金を受領したからといって、それを損益相殺の法理によって、原告らの受ける慰謝額から控除することは許されないというべきである。

三 また、原告らが受領した労災保険法による給付のうち、休業特別支給金、傷病特別支給金、傷病特別年金、遺族特別支給金、遺族特別年金といったいわゆる労働福祉事業給付は、保険給付とも異なり、被災者やその遺族のための福祉制度であるから、その性質上そもそも損益相殺の対象とならないと解すべきである。

第五章  損害

第一節  本件損害の特殊性に関する主張について

第一 健康被害以外の被害

原告らは、本件被害につき、健康被害が最も深刻かつ甚大であるとしつつも、それにとどまらず、「社会的、経済的、家庭的、精神的被害など」を受けたとし、その原因として「環境破壊」、「生活破壊」、「家庭破壊」、「村落共同体の破壊」を列挙する。この主張内容を見ると、原告らにおいては、土呂久の自然環境、土呂久の住民の生活基盤、家庭、さらには村落共同体自体が、原告らがその損害を賠償請求し得るところの、各々独自の保護法益として考えられているようにもうかがわれる。

しかしながら、本訴請求も被害者各個人らによる一個の損害賠償請求であり、かつ、各個人の請求が併合されているものにすぎない以上、原告らの被害としては、原告ら各々が受けた、個人的法益の侵害すなわち財産的損失ないし精神的苦痛のみが考えられるべきである。したがって、環境、生活、家庭、村落共同体を破壊されたと言っても、それはそのような「破壊」を通じて、原告らが、あくまでも個人として被害を受けたことが問題となるにすぎないのであるし、健康被害のほか「社会的、経済的、家庭的、精神的被害など」を受けたと言っても、それらは結局のところ、健康被害も含め各個人の財産的損失か精神的苦痛のいずれかに帰着すべきものである。

してみれば、「健康被害」、「環境破壊」、「生活破壊」、「家庭破壊」、「村落共同体の破壊」による「社会的、経済的、家庭的、精神的被害など」も存在するとの原告らの主張は、ただ単に、各個人の受けた被害を、そのように多角的な観点から検討評価しなければならないとの主張としてしか意味を持たないと言うべきであり、それを超える主張をしているとすれば、それを主張自体失当と言うほかない。

第二 健康被害の全身性・進行性による苦痛

慢性砒素中毒症の病像が、全身の多数の臓器に広範な障害をもたらす全身性の中毒症状であること、また、病状によっては、曝露が止んだ後も遷延し進行するものがあることは、前記第二章(慢性砒素中毒症)に認定したとおりである。

また、各原告らにそれぞれ多数の症状が発症していること、その中には鉱山操業終了後も遷延し進行しているものがあること、原告らの健康被害が、各人により差はあるにせよ、比較的多くの臓器の障害にわたっており、原告らにとって、個々的にみた症状はありふれたものであっても、多数の臓器に障害が及んでいることによって、特有の累積した苦痛を受けるものであることは、別冊個別主張・認定綴を総合すると、おおむね認め得るところである。

第二節  本件賠償請求について

第一 請求の内容

一 原告らは、財産的損害及び非財産的損害のすべてを包括して請求するとするが、ここで原告が包括請求というのは、第一節第一の主張にかんがみると、むしろ個人の属する家族や共同体の総体的な被害を訴えているようにも見受けられ、その主張する包括請求は、いささか不鮮明なものを含むといわざるを得ない。

二 ところで、原告らは、いわば損害総論において右のような主張をする一方で、各原告らの個別主張においては、原告ら各人が健康被害により受けた直接の病苦、入通院の心理的負担、家族にかける迷惑を意識することの苦痛等々、各人の健康被害に関係する諸々の精神的苦痛のみを訴えており、財産的損害の内容(健康被害に関するものとしては、治療費、休業損害、通院交通費、付添費用等。その他のものとしては農作物や山林の被害等。)については、特段言及していない。これに対応して被告の側の認否反論も、こと損害の発生に関しては、個別の原告の健康被害に関する精神的苦痛の主張に対応するものしか具体的になされていない。したがって、本訴請求は、その具体的な次元での主張の応酬を見る限りは、ほとんど純粋な慰謝料請求の訴訟と大差ない感がある。

三 以上をふまえて、本件損害賠償請求の内容・性質を検討するならば、畢竟、それは、各原告らの砒素中毒による健康被害に伴う、諸々の精神的苦痛に対する慰謝を求めているものと理解できるのである。

第二 一律慰謝料請求について

ところで、精神的苦痛を受けた被害者に対して賠償されるべき慰謝料額は、各人の苦痛の原因となった病状その他の個別事情により異なるものであることは当然であるから、原告の求める一律請求は、採用できないといわなければならない。

第三節  慰謝料額の算定

第一 損害額

一 全体的水準

前述のとおり、本訴請求は、原告の損害論の主張自体にやや混乱した面があるものの、結局のところ、健康被害による精神的苦痛を慰謝する慰謝料請求にとどまると目すべきことをふまえ、交通事件訴訟をはじめとする各種損害賠償事件における慰謝料額算定例、自賠責保険をはじめとする各種保険金給付における慰謝料給付例その他諸般の事情にかんがみ、本件賠償額の全体的水準を決定するものとする。

二 個別事情

別冊個別主張・認定綴で認定された、原告ら曝露被害者それぞれの個別事情、とりわけ症状自体の重さ、病苦の遷延ないし進行の存否・程度・発現した症状の数と種類、家族構成上占める地位、塵肺等他疾患による影響の有無・程度など、病状に関する諸要因を総合考慮すると、原告ら相互の間に軽視し難い精神的苦痛の程度の差があることが明らかであり、その程度に応じて損害額を算定することとする。

三 算定

以上第一及び第二により、原告らの精神的苦痛を慰謝する適正な慰謝料を算出すると、次のとおりとなる。

佐藤ミナト 二五〇〇万円

富高コユキ 二五〇〇万円

佐藤建吉 二〇〇〇万円

米田 嵩 二〇〇〇万円

佐藤マサ子 一五〇〇万円

佐藤定夫 一五〇〇万円

佐藤トネ 一五〇〇万円

富高 暁 一五〇〇万円

豊嶋重臣 一二〇〇万円

甲斐国頼 一二〇〇万円

高木 光 一〇〇〇万円

佐藤タモ 八〇〇万円

甲斐ミサエ 八〇〇万円

大崎架裟蔵 八〇〇万円

佐藤アヤ子 六〇〇万円

佐藤千代三 六〇〇万円

佐藤 直 四〇〇万円

矢津田近 三〇〇万円

第二 和解金の控除

前記第四章第一節記載のとおり、甲斐国頼が二四〇万円、佐藤千代三が二五〇万円、佐藤タモが二三〇万円の和解金を受領したので、これらの金額は右賠償額から控除されるべきである。

第三 相続

第一編第四章第五節第一、第二のとおり、被害者らについて相続がなされたことは当事者間に争いがなく、相続分については被告が明らかに争わないので、自白したものとみなす。

そうすると、各相続人(遺族たる原告及び訴訟承継人たる原告)らはそれぞれ、別表「認容金額一覧表(二)」及び同「認容金額一覧表(三)」掲記の相続分に従い、同表掲記の額の損害賠償請求権を承継取得したこととなる。

第四 弁護士費用

本件訴訟の難易度、審理の経過、認容額等諸般の事情を考慮すると、右各別表の弁護士費用欄掲記の金額が、本件原因行為と相当因果関係のある弁護士費用と認められるから、これを加算した額が原告らに支払われるべき賠償額となる。

第五 遅延損害金の起算日

原告らは、本件損害賠償額中弁護士費用以外の部分について、各訴状送達の日の翌日以降の遅延損害金の支払いを求めているけれども、前述のとおり本件慰謝料は、原告らの提訴前後の一切の事情を考慮して、本件口頭弁論終結時現在において算定したものであるから、これに対する遅延損害金の起算日は、右算定の基準日たる本件口頭弁論終結日(平成元年一二月一三日)とするのを相当とする。

第六章  結語

以上によれば、原告らの被告に対する本訴請求は、別表「認容金額一覧表(一)」、同「認容金額一覧表(二)」、同「認容金額一覧表(三)」の各認容金額欄掲記の金員及び同表の慰謝料欄掲記の内金に対する、本件口頭弁論終結時である平成元年一二月一三日からそれぞれ支払済みまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 鏑木重明 裁判官 飯田喜信 裁判官 林 正宏)

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